空はこんなに高かっただろうか。

眩しそうに目を細めて剣心は上を仰ぐ。
なんだか自分一人が周りの景色から引き離されて 身体が浮いている様だ。

「緋村ぁ〜」
唐突に明るい声がして振り返ってみると縁側で 操がちょいちょいと手招きしている。

「お洗濯終わった?
 あのね、お米ってどこにおいてあんの?」
「ああ、ちょうどきりのいいところでござるから 今いくでござるよ」

おおきなたらいを持ち上げて剣心は操の方へ近づいた。

「ところで何故操殿がお米などと?」
「ああ、薫さんがまた気持ち悪いって。
 なんでもお米の炊ける匂いって最悪なんだって。
 触るのもいやだって言ってる。
 だからあたしが手伝おうかなって」

ああ、そうか。
いよいよ本格的になってきたな。
そう思いながら剣心は操に米のある場所を教える。
全て自分でやってしまっても良かったが それではせっかく手伝いにわざわざ京都からきた操に悪い。
あいにく水加減も知らない操に丁寧に教えてやって、 剣心は今度は風呂を沸かす為の薪をくべようと家の裏手に まわった。

「緋村」

今度は低めの落ち着いた声が剣心を呼び止める。

「蒼紫・・・」
四乃森蒼紫は普段とは違う楽な着流しの格好で両手を 袂に入れて立っていた。

「すまないな。あれのわがままのせいで 返って迷惑をかけているようだ」
「そんなことはござらんよ。
 操殿や蒼紫のおかげで薫殿も気が紛れるようだし」
剣心は相変わらずけれんみのない笑顔で答える。
「それに大した悪阻(つわり)でもないのに 好奇心の強い操殿に手紙でつらつらと愚痴を並べた 薫殿も薫殿だし」
困ったように剣心は頭を掻いた。

蒼紫は少し会話を続けるかどうか迷ったようだったが 長めの前髪を掻き上げて言葉を継いだ。
「・・・俺も周りが心配するので操についてきたが 正直こういうのは初めてでな。
 操をすぐに連れ帰った方がいいのかどうか迷っていた」
「・・・良ければゆっくり滞在してくれていいでござるよ。
 ここは男所帯なので薫殿は操殿がいてくれて楽しそうだし。
 それに拙者も前回は蒼紫とあまりゆっくり茶の湯が出来なかったしな」
剣心の白い歯が零れる。

何故この男は闘いの中に居るときと日常の中に居るときとで、 こうも表情が違うのだろうと蒼紫は考えながら その場は剣心の言葉に甘えることにした。



「操ちゃん、ごめんねー、雑用なら全部剣心にやらせちゃえばいいのよ」
薫はぱたぱたと団扇を動かしながら冷たくなったお茶を飲み干した。
「何いってるのよ、薫さん!!
 あたし手伝うって決めたんだから。
 そのためにここへ来たんだよっ!」
無意味な力こぶを見せながら操がどんと己の胸をたたく。

「・・・話によったらね、もっとひどい人もいるんだって。
 もう起きあがることもできないとか、食べ物が何にも喉を 通らないとか。
 わたしなんてこうして食欲もあるんだから幸せよね」
座卓の上の煎餅をぱりぱりいわせながら薫はしゃべった。
ご相伴に預かって操も煎餅を囓る。
そしてやや上目遣いにしてもごもごと口を開いた。
「薫・・・さん、そのう、赤ちゃんが出来るってどんな感じ?」

ちょっとびっくりしたように薫は瞬きをしてそれからほんのり頬を赤らめる。
「そうねぇ、正直言ってよくわかんないかも」
「へ?かんどーとか歓喜とかないの?」
つっこんでくる操に戸惑うようにして薫は続けた。

「そりゃ、嬉しかったわよ?
 でも無事に生まれてくるまではわかんないし・・・。
 それに子供が出来たって分かったとき、まず思ったのが
 ああ、これであの人はずうっとわたしの側にいてくれる・・・って」
操のぱりぱりと煎餅を囓る動きがふと止まった。

「やっぱりどこかで不安だったのかもね」
照れくさそうに、そして寂しそうに薫は笑った。

剣心の彼女への気持ちを疑ってるわけではない。
でも彼がひとつの場所でずっと羽を休めていることが薫は 不思議だった。
ふいに剣心が消えてしまっても自分は嘆きこそすれ、驚きは しないだろう。

今薫が手にしている日常はいつかするりと彼女の手をすり抜けて 無くなってしまうかもしれない。
そして彼女は自分がそれを剣心に悟られることを恐れてもいた。
現在(いま)の彼にはそんな考えはきっと微塵もないであろうから。

・・小さな子供が積み上げた石・・・。
それが、自分の居る日常だった。

「・・・わかるよ、それ」

珍しく声を低くして操が呟いた。

「あたしもね、いつか蒼紫さまがどっか行っちゃうんじゃないかって びくびくしてる。
 ちゃーんと蒼紫さまがあたしを大事にしてくれてるのわかってても そう思っちゃう」
「操ちゃん・・・」
「でもそれはさ、蒼紫さまが決めることであたしが決めることじゃないし。
 それに」

ずいっといきなり薫の側に寄ると操は耳元でそっと囁く。
「・・・あたし、自分を磨くんだ。
 蒼紫さまがあたしを置いて行くことが考えられないように」

そしてまた元の位置に戻ると普通の声でしゃべった。
「女学校に行こうかと思ってる」

「え?」

「・・・とりあえず、できることからね!」
「操ちゃん・・・」

まだ幼い顔をしている彼女が蒼紫のことになると 急にしゃんと前を見据えている。
薫はあまりの愛しさにきゅっと操を抱きしめた。
「か、薫さん!?」
「そうね、覚悟決めたらもう突き進むっきゃないものね!」

わたしはあなたを支えると決めた。
視えない未来で迷ったりしない。
現在(いま)のわたしは
あなたと共に生きる。



月が、とても明るかった。

剣心と蒼紫のふたりはだんまりと茶をすすっている。
やがて剣心が口を開いた。
「薫殿と操殿は仲が良いでござるな」

くすりと思い出し笑いをして肩が震えた。
寄ると触るときゃーきゃー騒ぐ彼女たちは見ていて飽きない。
蒼紫と剣心という共に恋をするにはやっかいな相手に 恋しているという重大な共通項が、二人を親密にしているのだが 朴念仁の男達はそこに気付くこともなかった。

「・・・父親になるのか」

ぼそりと蒼紫が呟く。

「ああ、そうなるな」

剣心もさして感情を込めずに言葉を返した。
ことりと蒼紫は湯飲みを置いた。

「不思議だな。
 人斬りの罪で悩んでいた男が新しい生命の親になるのか」
嫌みな響きは全くない。
言葉を飾って話すことの出来ない蒼紫は率直に疑問を 口にしたに過ぎない。
「・・・そうでござるな。
 縁と闘う前の拙者ならまず考えられないな」
剣心はふっと遠くを見るような瞳をする。

「昔から人は大きな戦いやひどい疫病や・・・他にもいろいろな 困難に遭いながらも、こうして今もこの大地で、繁栄している。
 それがほんとの流れかな・・とか考えるようになった」
「・・・・・」
「こうして守りたい人を得て、大事なものが増えて、 そしてそれらを守り生きてゆくこともいいかな、と思った。
 ・・・かといって拙者の大部分が変わったわけではないがな。
 やはり違和感というのか、時々この空の下で自分だけが 地上から浮き上がっていくような感覚もあるでござるが」

台詞の最後でにこりとして剣心は飲み干した湯飲みを茶托に置く。

蒼紫は其れを見つめながら
「では“抜刀斎”は本当にいなくなったのだな」
と、低い声で呟いた。

それからまた独り言のように言葉を続ける。
「俺は結局、抜刀斎とまみえることはなかったな」

「未練があるでござるか、抜刀斎に」
蒼紫は顔を上げて剣心を見た。
彼の色素の薄い瞳には変わらない穏やかさがあった。

「・・・埋み火のようなものがな。
 未練と言うほどでもないが、それでも抜刀斎と 剣を交えた斎藤をうらやましく思う時がある」

くすりと剣心は笑った。

「拙者もだ。
 まだまだ闘いの中に身を置いている斎藤をうらやましく 思うときがあるでござるよ」

二人は互いの顔をしばらく見つめたがやがて剣心はぷっと 吹き出し、蒼紫は静かに微笑んだ。

「しようがないでござるな、男は」
「ああ、全くだ」



この地上の、ひとつの家の、ひとつの夜が更けていった。
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