気まぐれな風が、ふわりと帽子を攫った。
真っ白で、青や黄色の小さな花たちが清楚に飾り付けられた、帽子。
お気に入りだったから、慌てて追いかけた。
背後で彼が、びっくりしたようにわたしの名を呼ぶ。

風は思ったよりきつくて。
コロコロと帽子は回転してゆく。
掴めそうで、掴めなくて。
自分の鈍くささに呆れた。

すい、といきなり白い手が伸びてきて。
わたしの帽子を捕らえた。
その綺麗な指先からずっと視線を動かして、わたしの帽子を拾ってくれた 青年の貌を見る。
白皙の頬にかかる真っ黒な絹糸の髪。
真っ黒な瞳。
・・・あまりに整った顔立ちに見惚れていると、 「どうぞ」と青年はわたしへ向かって帽子を差し出した。
「あ、ありがとうございます」
受け取ろうとわたしが手を伸ばすと。
青年の口元が素早く動いた。
「・・・死相が出ていますよ」
「え      ・・・?」

言葉が速すぎて、何のことかわからずきょとんとしてしまったわたしを見て。
青年は気難しげに眉を顰めた。
「・・・幸せですか?」
「ええ!もちろんです」
青年は不思議な光を孕んだ瞳で、わたしの顔を覗き込み。
そして軽く頭を下げて立ち去っていった。

「お〜い」
わたしを呼ぶ彼の声が近づいてくる。
わたしを心配して探してくれたのだ。
優しい、大好きな人。





彼がその右手に握っている黒色の金属は、いわゆる拳銃と云われる物だろう、と ぼんやりと考えた。
暗く深い闇がその小さな円筒から覗いてくる。

「お前なんか好きじゃなかった」
「お前と結婚したのは、財産目当てだ」
「お前みたいな何の取り柄もない女に、俺みたいな男は勿体ないだろう?」
「借金もある、やりたいこともある、金が要るんだよ、金が」
「だから      死んでくれ」

ああ、可哀想に。
そんなに唇を振るわせて。
そんなに脂汗を浮かべて。
そんなに蒼い顔色をして。

「・・・その拳銃、渡してくれる?」
「何を、云ってる・・・っ」
「わたし、自分で死ぬから」
「!?」
「貴男が撃てば、疑われるわ。
 心配しないで、ちゃんと自分で死ぬから。
 死んであげるから」
「どうし、て・・・そんな」

好きだから。
大好きだから。
      愛しているからよ       ・・・・・・



どうしようのない、馬鹿な女だ。
彼はそんな表情(かお)をしてわたしに銃を預けた。
有り難う、信じてくれて。
わたしはその小さな拳銃をハンケチにくるみ、ハンドバッグに忍ばせた。
自動車でこの屋敷から少し離れた所へ行こう。
そうだ、あの岬はどうかしら?
とても、とても綺麗な眺めだから。



カツカツ、とわたしのヒールの音がする。
向こうで毒気を抜かれたような彼が佇んでいる。



ねえ。

わたし、知っているのよ。



貴男が、わたしを愛してくれていたことを。



貴男は自分で気づいては居なかったでしょう。
どうやってわたしと結婚できるのか、どうやって財産を巻き上げられるのか、 どうやってわたしを殺そうか。
そんな空しい算段ばかりで。
気づくことはなかったのよね。

でも貴男がわたしの手を引いてくれた時。
貴男がわたしの肩を抱いた時。
貴男がわたしの名を呼んでくれた時。

わたしは確かに貴男の愛を感じていたのよ。







ねえ。
お願い。

そのまま自分の真実(ほんとう)に気づかないでね。
貴男はただわたしを利用しただけだと、思っていてね。
だって貴男が苦しむのは嫌だから。

だから。
ね?



願わくば。

            願わくば
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