いつもいつも、誰かに見られているようだった。
はっと気が付いて辺りを見渡すのだけれど、決まって誰の姿もない。
わたしの隣を歩く彼は『気のせいだよ』と慰めてくれるけれど。
『君が美人だから、男が振り返るのさ』と笑ってくれるけれど。

視線。
気配。
感情。
そう、感情も含まれるのだ。
身震いするような、怖ろしい情念を感じるのだ。
これは一体なんなのだろうか。





ガタンゴトンガタンゴトン

彼の両親に挨拶をした帰りの夜汽車。
わたしは真っ暗な外の景色をぼんやり眺めていた。
疲れたのか、彼はわたしの隣でうとうとしている。
外は闇。
時折流れてゆく光は外灯なのか。
窓の隙間から流れ込む風が冷たくて、膝のショールを取り上げようとした時。

バン

窓に何か叩きつけられたような音がして、思わずわたしは顔を上げた。



―――べったりと、まっしろな手の平がひとつ張り付いている。
走り続ける、汽車の窓に。
「ひいっ!!」
声にならない悲鳴を上げて、船を漕ぐ彼を揺り動かした。
寝ぼけ眼の彼がその窓を見遣った時には、既に闇ばかりで何も見えない。
見間違いだと、彼は気にも留めてはくれない。
・・・だけど、あの硝子に張り付いた指と指の隙間から、例の視線を感じたのは?
ああ、ああ!
頭がおかしくなりそうだ。



それだけではない。
ある日、夜中にふと目覚めたわたしは喉の渇きを覚えて 台所に立った。
庭に面した窓のカーテンが中途半端に閉めてあるのが気になって直そうと移動した。
そして、見たのだ。
硝子一枚隔てたすぐ向こうに奇妙な女が立っていることに。
「い、いや・・・」
わたしは恐怖に震えた。
なぜならその女は顔のあちこちが青黒く膨れあがり、黒髪を振り乱し、 深い藍色の服に生々しく血をこびり付かせていた。

にた・・・

歪んだ唇で笑うその女は、しかし眼だけは憎しみに燃えてわたしを睨む。

許さない
認めない

声は聞こえなかったけれど、彼女の唇は確かにそう動いた気がした。
「ああああー!!」
耐えきれず大声で叫んだわたしの声に、家族の者が驚いて起きてきた。
疾うに女の姿は、何処にもなかったけれど。



「そ、それは本当かい?」
わたしは我慢しきれずに、不気味な女の風貌を彼に伝えた。
話が進むうちに、人の良さそうな彼の顔がみるみる青ざめてくる。
「本当なのよ、どうして!?」
「それは・・・ああ、間違いない。
 それは事故で亡くなった僕の前の恋人だ」



そうだったのか。
不慮の自動車事故で死んでしまったその女は、彼への想いが断ち切れずに、 新しい恋人であるわたしの前に現れるのだ。
負けたくない。
そう思った。
わたしだって彼を愛している。
あの女と引けは取らないはずだ。
何よりわたしは生きていて、彼女は死んでいるのだから。



結納の前日、陽の沈みかけた商店街でふと足を止めた。
ショーウィンドウの向こうの、真っ白なドレスに惹かれたからだ。
「素敵・・・」
溜息と共に近づき、両の手をそのウィンドウに押し付けて、もっと眺めようとした。

にた・・・

眼前にいきなり飛び込んできたのは、その女の顔だった。
薄い硝子を隔てて、わたしの鼻先で、嗤う女。
醜い、顔。
嫉妬に狂った、歪んだ顔。

恐怖のあまり躯が動かなかった。
彼女への闘争心はあっという間に消え去り、怖ろしくて怖ろしくて・・・口も利けなかった。

ねえ。
他の人にはみえないの?
ねえ。
わたしの後を歩き進む、あなたたち。
ねえ。
―――助けて。



きりきりと自分の腕が、固い固い硝子を圧す。
わたしの意志に構わず、勝手に力を込めるわたしの両腕。
にたにたと目の前で女が嗤う。

圧す。
圧す。
嗤う。



がしゃん

蜘蛛の網のように、ヒビが奔り、粉々に割れた硝子が降り注ぐ。
わたしの頭上に。
眼球に。
頬に。
頸に。
肩に、腕に、胸に、腹に、大腿に。
降り注ぎ、突き刺さり。










「やあ、夢幻君」
「おや・・・久しぶりだな」
「どうだい?景気は」
「さあ。
 関係ないな。
 ・・・そういえばまた見掛けないご婦人だな」
「ああ。
 今度こそ、幸せになるよ」
「・・・そうなれば、いいんだがな」













何よ・・・何よ・・・何なのよ!?
わたしがどれ程痛い思いをしたと思ってるの!?
あれからまだ日も浅いじゃないの。
なんて男。
なんて男。
キィキィと爪を硝子に立てる。
その、『向こう』にくつろぐ彼の姿。
キィキィ
ああ、なんて不愉快な音。
キィキィ・・・ギギ

不愉快なのは、お前だ!!



ぎしぎしとわたしは、わたしと彼を隔てる硝子を圧した。

ぎし。
もう少し。
ぎし。
もう少し。

ばりん



―――――――――ほうら・・・
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