どこまで行けばいいのか解らなかった。
ここがどこなのかも解らなかった。
ただ、ここに悪意が満ち満ちていることだけ、解っていた。

おおん・・・おお・・・ん・・・

何の音?
気持ち悪い。
思わず走り出した時、そこは崩れた。

「あああっ!!」

とっさに上げた己の声が、掠れて妙に情けなかった。

落ちる。
落ちる。
どこまで?――――――






「目覚めない?」

黒服に身を固めた青年がベッドの上の少女を見遣って問いかけた。

「そうです・・・もうかれこれ一週間・・・
 医者に診せても埒があかず、院長(せんせい)の紹介で
貴方に来てもらったのです」
少女の父親は憔悴しきった顔で、それでも冷静に言葉を継いだ。
父親の隣には若い後妻が俯いて座っている。
「ふむ・・・」
その青年、夢幻魔実也は軽く溜息をつくと
眠っている少女の額に 白い右手を置いた。
そして切れ長の瞳を閉じて、意識を集中し始めた。
父親と後妻は訝しげにそれを見ている。
重苦しい沈黙がその病室を包んだ。






何処までも落ちて行くので奈落よりも深いところへ落ちて行くのかと 錯覚した。
このままだと意識を保つのも苦しい。
いっそ気絶してしまおうかと考えたとき、ふっと誰かに抱き込まれた。

「それ以上潜ると戻れなくなるぞ」

振り向くと黒いスーツ姿の青年が彼女を支えていた。
白い肌と、紅い唇。夜の瞳と漆黒の髪。

「あなた、悪魔・・・?」
思わず第一印象を漏らすと それを聞いた青年は薄く笑う。
「悪魔は酷いな。これでも君を助けに来たんだ・・・ さん」

その笑みに思わず見とれては 頬を染めた。
「何故、わたしの名を?」
「君のご両親に君を連れ戻すように頼まれてね」

両親・・・・・・
は優しい父と 何を考えているのか解らない継母を思い浮かべた。
「・・・そう。
 ねえ、あなたなら解るの?ここは何処なのか」
「夢幻。僕は夢幻魔実也だ。
 そしてここは・・・」

どん

空気が重く震えた。
見下ろすと長い長い蛇がもの凄い勢いで此方へと昇ってくる。
ぐっと帽子を被り直して、魔実也は上昇した。

「ここは悪夢、さ」






「何をしてるんでしょう?」
か細い声で後妻が夫に問うた。
ゆっくりと首を振りながら
少女の父親はハンケチで額の汗を拭う。
「わからん。わからんが・・・
最早彼に託すしか手はない・・・」






ぐんぐんと蛇は近づいて来る。

「夢幻さん!!」
恐怖のあまり、魔実也にしがみついては 叫んだ。
上昇しながら魔実也はに 囁く。
「君なら、知っているはずだ。
 あの、蛇の正体を」
「え?」
「呼ぶんだ、名を。
 さん、君は知っているはずだ」

何を言っているのか。
の頭は混乱した。
幾度も幾度も頭(かぶり)を振って否定する。

「知らない、解らない!!
 貴方は一体何を言ってるの!?」

ぶああっ

怖ろしく強い風が二人を巻き込み、の 躰を支えていた魔実也の腕が解かれた。

「きゃああああ」

はまるで木の葉の様に巻き上げられて行く。
っ・・・!!」
魔実也の声も風に掻き消される。






くっと少女の喉が動いた。
?」
父親は思わず駆け寄ってもう一度確かめようとしたが二度目はなかった。
魔実也も身じろぎもせずに彼女の額に手を置いたままだ。






気が付くと湿った草むらに、立っていた。
「夢幻さん・・・」
小さな声で呼んでみるが、応(いら)えはない。
「夢幻さん!!」
今度は思い切って叫んでみた。
こんな、薄暗い草原で一人などと耐え難かった。
本気なのか片手間なのか解らない不思議な微笑をする青年でも 傍にいて欲しかった。
彼なら何処にいても彼本来の態度を失うことはないだろうから。

「たす・・・けて・・・」
蹲って、泣きそうになった。
だが泣くわけにはいかなくなった。なぜなら。

うおおん、うおん

嫌な音が木霊した。
この音は何なのか。
唇を噛み締めて辺りを見回した。

うおん!!

草達がびくりと震えた。は 振り返り、あまりの姿に背筋に鳥肌を立てた。

「へ、蛇・・・?」

を一口で呑み込むくらいの 大きな蛇が鎌首を持ち上げていた。
あの、不気味な音はその蛇の長く細い舌が律動する音だったのだ。
無意識に後ずさると、蛇はその巨大な眼球をぐるりと動かした。

だがその時。

いきなり蛇は巨体を捻らせて苦しみだした。
見るとが先程まで 傍にいて欲しいと念じていた人物が 蛇の尾の辺りで両手の平から青白い光りを放っている。
その光りが直接蛇の全身を貫き、蛇が悶えていたのだ。

「来いっ!」
魔実也がに向けて叫んだ。
弾かれた様には駆け出し、 彼の手を取る。
再び彼女は魔実也に抱きかかえられて、上昇した。

のたうち回っていた蛇はそれに気付き、ぐん、と跳ね上がる。

「呼んでやれ」
「え?」
「君が、自身が 呼んでやらないとあれは気付かない」

魔実也の瞳がの瞳を 覗き込む。
深い、夜の帷が彼女の瞳に映った。
「わたし、わたし・・・」

蛇は再びぐんぐんとふたりに近づいてくる。
その、紅い眼は真っ直ぐだけを 捉えていた。

(あの眼。あの・・・感じ・・・)
急激に記憶が氾濫した。
知っている、わたしは『知っている』。

「・・・さん」
唇が無意識に動いた。

「か・・・さん」
魔実也の右手がの右手に重なった。


かあさん!!!






「泣いているのかしら・・・」
の新しい母はおずおずと 手を差し出して、
少女の動かない右手を握った。
「私、遠慮しすぎてたわね。
 もっともっとこの子と話をしなくちゃいけないのよね・・・」
父親は哀しげに義理の親子であるふたりを見つめた。

「そうだな。が戻ってきたら もっとたくさん――――――」
そう言いかけたとき、魔実也の肩がぴくりと動いた。






は泣きじゃくっていた。
魔実也はしばらく少女に胸を貸しながら、何も言わずに 傍にいる。
あたりにあの、不気味な蛇の姿は無くなっていた。
ただ遠く、幽かに子守歌が聞こえてくる。

「わたしがいけなかったのね。
 父や義母に対するわたしの不信感が、母を迷わせてたの
 ね・・・」
「――――――さあ、ね」
おそらく本人自身の嫉妬もあったのだろう、と魔実也は思ったが それは胸に秘めておいた。

やがては顔を上げた。
この悪夢の世界で初めて見せた微笑みだった。

「帰る。
 ・・・もう、帰れるんでしょう?」

小さく唇の端を上げて、魔実也が答えた。
「ああ」

彼は襟元を整えて、に再び 手を差し伸べた。
「いくぞ」


「すこし、残念だけど」
彼に聞こえないほどの小さな声で呟いては その手をしっかりと握った。
「・・・冷たいわ」
「体温が低いんだ」
そんな会話を交わしながらだんだんふたりの姿は薄くなってゆく。
姿が消える最後の瞬間、は 生前の母を見た。


母の唇が、ゆっくりと動く。

・・・・・・ごめんね・・・・・・・・・・・・・・・・・・






が現実で目覚めたとき、
義母の泣き笑いの顔が真っ先に飛び込んだ。
[夢幻紳士 Index]