「やあ、あれだ」

太った背の低い初老の男が ハンカチで汗を拭き拭き、指差した。

男が示したその先には大きな古びた洋館が ひっそりと佇んでいる。
生活感の無さがこの距離からでもはっきりと 窺い知れるほど、陰鬱さが立ちこめていて少々薄気味悪い。


初老の男のすぐ後でいかにも学者肌の青年がずれる眼鏡を 直しながら、振り返った。

「夢幻さん、こちらです」

夢幻と呼ばれた黒ずくめの青年は二人に大きく遅れながら 紫煙を燻らせて歩いてくる。

「・・・いい眺めですね」

魔実也は今来た道を振り返ってのんびりと呟いた。
眼鏡の青年は何を呑気な、と眉を顰めたが 初老の男は機嫌良く答える。

「そうでしょうとも。
 ここから見下ろす街の夜景は結構なものですぞ。
 意外に街からも近いし、あのかび臭い洋館をホテルに改装すれば一儲け間違いなしです」

「仙石さん・・・」

緊張感の欠片もない魔実也と仙石を見て、青年は呆れたようだ。

「ホテル云々の前に肝心なことを忘れないください、ふたりとも」
「なんだ、真辺、大げさなことをいうな」
「数人が行方不明なんですよ、心してくれないと」

真辺は困ったように魔実也の方を見る。
が、相変わらず彼は煙を吐くだけだ。
錆び付いた門扉を開け、三人は洋館の大きな吹き抜けの玄関の前に立った。

「・・・久しいな、ここに来るのも」
感慨深げに呟くと、仙石は額の汗を拭いながら扉の鍵を回す。
その間、不安げに真辺が周囲に視線を奔らせている。
「落ち着かないようですね」
魔実也が声を掛けると真辺は眼鏡を押さえながら大きく頷いた。
「あなたにもお話ししましたが、いろいろ有りすぎるんですよ。
 改修工事をしようとして二人の業者が消息を絶つ。
 この屋敷の中の調度品を運び出そうとした骨董屋もいつの間にか行方知れず。
 それらを調べに来た新聞記者もやはり・・・」

広いホールは真っ昼間だというのに薄暗く、湿気た臭いが鼻をついた。
「まったく、おかげで幽霊屋敷だの、変質者が住みついてるだの、けしからん噂が広まって大迷惑だ。
 きっちり調べて何もないことを証明してやる」
仙石は魔実也を振り返って同意を求める。
魔実也は薄く笑って何も答えない。
真辺は応接間の埃を払い、洋館の見取り図を広げた。

「この屋敷自体はさほど広くはないのですが  ・・・部屋数は多い方でしょうか。
 もっと人手があればよろしいのですが多人数で行動すると また余計な噂が立ちそうですし、気味悪がる人が多いもので・・・。
 さて、手分けして調べてみますか?
 それとも用心して三人一緒に行動しますか?」
真辺は事務的に話を進めた。
横で仙石が警察の無能さを蕩々と述べている。
魔実也は肩に落ちてくる埃を払いながら真辺に訊ねた。

「あなた方は何度かここへ足を運ばれたのでしょう?」
「ええ、この館の以前の持ち主である 郷田さんと、仙石さんは懇意の間柄でしたので」
「・・・あなたは?」
矢継早の質問に少したじろぎながら真辺はまた眼鏡を掛け直す。
「郷田さんは私の大学での恩師でして・・・よくかわいがってもらいました」

「こいつはね、勉強が良くできましてな。
 自慢の甥です」
ばん、と仙石に背中を叩かれて、真辺は数歩よろめいた。
その腕をぐいっと掴んで魔実也は真辺に囁く。
「君と僕が調べよう。僕はここに不案内だし」
そして仙石を振り返るとこの居間で待機するように告げた。





二階へ向けてすたすたと歩いてゆく魔実也を 真辺は慌てて追いかけた。

「夢幻さん、待ってください」

ひとりで居るのは不安らしく顔色が多少蒼くなっている。
廊下の真ん中辺りでようやく足を止めた魔実也に追いつくと、 真辺は安心したように息を整えた。

「・・・心当たりがあるんだろう?」
「え・・・?」
「この僕をわざわざ呼んだんだ。
 君たちにはこの連続行方不明事件の真相に心当たりが あるんじゃないのか」
眼鏡の奥の真辺の眼が不自然に魔実也から逸れた。
そして彼は唇を舐めて、どういってよいものか思案しているようだった。

「・・・仙石は・・・伯父は一笑に付しましたが 私はこれが普通の事件ではないと考えています」

意を決して真辺は魔実也に向き直り、慎重に語り始めた。
笑うでもなく、怪訝そうでもなく、無表情で魔実也は煙草を燻らせている。
「郷田さんは、人が好すぎて仙石に騙されたような形でこの館を 手放してしまいました。
 ・・・もう五年も前のことです。
 当時郷田さんは奥さんに先立たれて男手ひとりで育てた娘がひとり いたのですが―――これがかなりの美しい少女でした」







仙石はソファーにふんぞり返りながら やたらに汗を拭いていた。

「暑いな・・・」
空気がねっとりと纏わり付いてくるようで堪らず 彼は窓をもっと大きく開けようと立ち上がった。
すると、白い影が眼の端に映ったように感じる。
仙石は手に掛けた窓枠から離れてゆっくり振り返った。


――――――ぱたぱたぱた


・・・今、足音がしなかったか?
そう、まるで少女のような、軽い足音が。


「・・・・・・」
首筋にじわじわと新たな汗が浮いた。
脂肪の付いた太い指でそれを乱暴に拭う。
胸の動悸が心なしか速い。
仙石は階上へ向かった真辺と魔実也の後を追おうと 柄にもなく足早に階段の方へ向かった。



「ん?」
階段の途中の踊り場で仙石は大きな鏡が掲げてあることに気付く。
「こんなものがあったかな」
肥った自分の全身を映している鏡。
不愉快になって視線を逸らすと 厳めしい木彫りの枠が興味を引く。
「・・・ほう、たいした造りだ・・・」
思わず手を伸ばし、仙石は鏡に触ろうとした。


ぐらり


いきなり鏡の中の景色が歪む。
仙石は反射的に眼をこすった。
鏡の表面が曇り、自分の姿すらよく見えなくなる。
「はて・・・?」
ぺたり、と裸足の足音が聞こえた。
すぐ近くだ、と判る。
さっきまであれ程暑かったのに、何故か躰が小刻みに震えだした。
何かが後に立っている。
―――だが、振り向くことは躰が拒否していた。
仙石がどうすればいいのか判らない内に 彼の太く短い首筋にさらりと触れてくるものがある。


髪、だ。


この感触を、過去に仙石は覚えていた。
歯がかちかちと鳴る。
顎が絶え間なく震えているからだ。

次に細い指が己の鎖骨辺りに伸びてきたのを感じた。
ひんやりとしているのに妙に粘ついた感触。

はっ・・はっ・・はっ・・・

口で荒い息を吐きながら、鼻腔で苦しげに酸素を取り込む。

はっ・・・・はっ・・・・・・・・はっ・・・・・・

喉仏をゴクリと鳴らし、視線を落として、仙石はその手を見る。



・・・この手。
白くて、細くて、小さな。



―――五つの爪がちりちりと彼の浅黒い皮膚を滑った―――





動け

動け

うごけ!!



仙石は凍り付いた足を叱咤する。
今逃げなければ、取り返しがつかない。きっと。


にげるんだ、にげるんだ、にげるにげるにげるにげる・・・


ずっ、と鉛のような右足が僅かに引いた。
肩にのし掛かる少女の腕の重みに恐怖しながらそれでも 逃れようと再び彼は繰り返す。


動け 動け 逃げる 逃げる うごけ、にげる、う、ご・・・


躰を捩ったとき、彼の目線が鏡の正面を捉えた。
そして今度は思考までも凍り付く。

鏡には滑稽なほど戦く自分と、 そのすぐ背後に、白い服を着た少女がいた。


・・・おまえか・・・やはり、おまえだったか・・・!!


声にならない声が大きく開け放たれた口からひゅーひゅーと漏れる。
少女は、小さな赤い唇を吊り上げた。
するりと仙石の前に立ち、くっくっと喉を鳴らしたようだった。
か細い指が小刻みに痙攣する男の右手首を掴み、ぐい、と鏡の中へ向かう。
驚いたことに容易く少女の全身と自分の右腕が鏡面に吸い込まれた。
そのままもの凄い力でずるずると引き込まれる。



仙石は解っていた。



この向こうは闇だ。
自分は闇に喰われるのだ・・・・・・







「申し上げにくいのですが・・・ 仙石は彼女に惹かれていました。
 郷田さんの弟子である私を利用してよく彼女と 出かけたりしたものです」
話の途中、真辺はふと魔実也の雰囲気が変わったことに気付いて 顔をあげた。
魔実也は厳しい表情で何かを窺っているようだ。
「・・・でたな」
「はっ?」
「仙石氏の元へ戻るぞ」
くるりと背を向けて風のように走り出す。
出遅れた真辺は呆けたように先程の台詞をなぞった。

「・・・で、た・・・?・・・」
そして意味をやっと理解すると慌て魔実也の後を追う。
階段の広い踊り場で魔実也はつと足を止めた。
がむしゃらに後を付いてきた真辺は急に止まることができず、もう少しで 魔実也にぶつかりそうになる。
「・・・・・・」
「どうしましたか?」
乱れる息を整えて、真辺はじっと立ち続ける魔実也に 問いかけた。
何も見あたらないこの、小さな場所で彼は何を視ているのだろう?

「夢幻さん?」
「・・・やられた」
長い人差し指で真辺を招くと、彼の男にしては細いなで肩に手を置き、 魔実也は囁いた。
「僕に触れていれば視える。
 ここでなにがあったのか」
眼鏡を上にずらし、目蓋を擦って真辺はまた眼鏡を掛け直す。
そしてあるものに気付いた。
目の前の白い壁に飛び散る、赤い血の飛沫を。

「な、なんだ!?」

思わず、後ずさりした足元がぬるりと滑った。
大量の血溜まりに目を剥く。
「・・・う・・・」
もはや口も利けなくなって魔実也の姿を捜そうと視線を泳がせたとき、 目の前に姿見が浮いていることに気付いた。
「か、鏡・・・」

さっきまでは確かになかった。
しかもこの館でも見た覚えがない。
鏡面は曇って何も映し出してはいない。
それにどう考えても鏡は何の支えも無しに宙に浮いている。
「あ!!」
鈍い光りが一瞬反射して真辺はそこに仙石の顔を見た。
胴体のない、血だらけの生首の仙石を・・・・・・

「わあああっ!!」
思い切り叫ぶと同時に、目の前の鏡は掻き消えた。
無論、血溜まりも血飛沫も消えている。

「はあ、はあ、はあ」
何が起こったのか理解できないまま、真辺は後を振り返った。



それは、確かに想像していたものだった。
だがその恐怖は想像をはるかに上回っていた。

「・・・とお・・こ・・・」
白い服の少女がいた。
胸まで届く真っ直ぐな黒い髪。
透けるような肌。
大人に完成する一歩手前の、細い肢体。
素足のままで、その踝(くるぶし)が妙に痛々しげで。

・・・・・・あの時のまま・・・・・

ただ其の顔に浮かぶ唇の紅さは違っていた。
不自然なほど艶やかに、ぬらぬらと光る。
まるで爬虫類の湿った皮膚だ。
そして其の唇がゆっくりと笑いを浮かべたとき、真辺の神経は 限界を超えた。

「わあ!あああ!!
 うわああああああ・・・・・」






「おい」



筋肉の薄いその肩を強い力で揺すられた。
軌道を外れかけた真辺の精神が危ういところで引き戻される。
それでも己の躰を支えていた脚はすっかり萎えて、崩れるように 真辺はその場にへたり込んだ。

「・・・何を視た?」
「あ・・・」
細められた、青年の切れ長の瞳。
黒曜石を思わせるその色に真辺は引き込まれそうになる。
「夢幻さん・・・あなたが視せたんですか?
 あれを。
 ――――――“とおこ”を」
「首を捻り切られた仙石は確かに僕が視せた。
 だが“とおこ”という少女は君自身が視たんだ。
 ・・全部話せ。
 真実を」

真辺の傍で膝を付いていた魔実也はゆっくりと立ち上がり、 煙草を取り出した。
マッチの火が揺らめいて、その光点が残像として目に焼き付く。
真辺はがっくりと壁にもたれ掛かると半分落ちかけていた眼鏡を 怠そうに外した。
さっきまで大量の血を擁していた筈の 木目の床を見つめながら、やや嗄れた声で 話し始める。





私たちは最初、何もかもがうまくいっていました。
そう、郷田さんの奥さんが亡くなるまでは・・・



もともと伯父、
・・・仙石は郷田さんの奥さんに横恋慕していたんです。
彼女はとてもたおやかで、美しい女性(ひと)でした。
彼女が亡くなったとき、
郷田さんはかなりショックだったのでしょう、
一人娘のとおこを連れて上海へ去ってしまいました。
長い間音信もなく 仙石もそれきり、
郷田さんのことを忘れた様に見えました。

だが実際は違っていたのです。

まず仙石は主のいないこの館の留守を預かり、
そしていつの間にか
自分の所有にしてしまいました。
しかも幾度か上海に赴いて
郷田親子と会ってもいたらしいのです。

・・・そして郷田氏は上海に渡って三年後に死亡しました。
他に身よりのいなかったとおこを
仙石は後見人として日本に連れて帰り、
再びこの屋敷で暮らせるようにしました。
勿論、自分自身と共に。




何もかも、私の知らないところで仙石は事を運びました。
ああ、でも私も知っていることがあります。
隠そうとしたって、解るんだ。
仙石は手に入れられなかった奥さんの代わりに、
彼女にそっくりなとおこを手に入れた。

――――――でも、私は解っている。

仙石はとおこを完全に手に入れるために
郷田さんを何らかの形で葬ったに違いないんだ。
あの人は昔から欲しい物は強引なやり方で手に入れてきた。
唯一手に入れられなかった奥さんの代わりに
とおこを手に入れたんだ。

伯父さんにはそりゃ、世話になった。
昔も、現在(いま)も。
金も、住む場所も、仕事すら!!

だけど、許せない。
・・・赦せない。



とおこは・・・

とおこは小さな頃から私が・・・私が・・・・!!





「それで、彼女を手に掛けた」

真辺ははっと顔を上げた。
まるで夢想から醒めたように。
薄く立ち上る紫煙の向こうの青年はまるで表情を動かしてはいない。
だが真辺が今まで経験したこともない威圧感があった。
それまでの恐怖とは別のものが、真辺を押し包んでゆく。
「・・・君は伯父を憎んでる。
 だが君は心の中で、伯父を責めることしか出来ない。
 自らの非力さを呪い、伯父の権力を呪い、
 やがては“とおこ”自身を―――呪った」
真辺は強く目蓋を閉じた。

「そして君は」

がっ!!
両指で真辺は己の頭を掴んだ。
がくがくと躰を揺らしながら、
まるで躰が揺れるせいで言葉が溢れてしまうような。

「違う、違う、
 乱暴するつもりじゃ、なかった、
 ・・・殺すつもりじゃあ・・・なか、った・・・
 気付いたら絞めてた、とおこを。
 彼女の、首。
 く、び・・・」

ちらりと彼の醜態を見遣り、魔実也は興味無げに煙を吐く。
階下が薄暗くなり、じめじめとした空気の塊が蹲る。
「みろ。夕暮れだ。
 ・・・闇が近づいてくる。
 彼女の世界が、来るぞ」

その言葉に 弾かれたように、真辺は腰を浮かした。



―――どうしてこんなに夜が早いんだ?
整理の付かない頭の中で真辺は考える。

暑い。
今は真夏だ。
そうだ、もっともっと陽が長くてもいいじゃないか?
ここには今、電線が通っていない。
陽が落ちれば、月明かりくらいしか光源は・・・・・・

ああ、闇だ、闇が来る!

真辺の精神は既に恐慌状態だった。
逃げだそうにも、闇が怖ろしくて一人では動けない。
唯一頼りになる男はまた新しい煙草を銜えている。
この状況で普段と変わりない仕草をする男も、真辺には不気味で仕方がない。

やがて暗がりにも目が慣れてきた頃、
ギギギギギ・・・・・・と背筋に怖気が趨るような音が聞こえてきた。
いわゆる硝子を引っ掻くような嫌な音。
しかもあちこちで不協和音を醸し出しながら大きくなってゆく。

「・・・なんなんだ!!」
あまりの不快さに真辺は立ち上がり、夢幻のいた場所を振り返った。
「うっ・・・!?」
だが其処には夢幻ではない物が、いた。
両耳を塞いでいた手を思わず離して、真辺はその眼前の物に唖然とする。

「か、か、鏡・・・」

ひゃああ、と情けない悲鳴が上がった。
くるりと回れ右をして夢幻の姿を探そうとした。
ところが鏡は彼の向かう先々にその優雅な形態を現し、行く手を塞ぐ。
「やめてくれ、やめてくれ、頼む、頼むぅぅ」
裏返った声が暗い館に籠もる。
それは現在の彼の状況に似て、一層哀れだ。



綺麗でしょう?



真辺の左耳に忘れたくても忘れられない声が響いた。



覚えてるわよね?
コレ、わたしの部屋に飾ってあったこと。

この鏡はねえ、ずうっと昔ある貴婦人が愛用していたの。
毎晩、毎晩若い女をさらってはその生き血を絞って 自分に浴びせかけて、 それで自分が若く美しくなったような気がしては この鏡の前で自分を眺めたんですって。

・・・そうしてね、この鏡は人の味を覚えたの・・・・・・・・・




甘くて優しくて、何処か底冷えのする少女の声が、吐息が彼の頬を 掠める。
確認することが怖ろしくて、真辺は瞳ではなく首全体をぎこちなく動かしながら 油の切れた機械のように左を向いた。

初めにさらりとした黒髪が揺れるのを見た。
それから青白い頬の輪郭。
ぎょろりとそれの瞳だけが真辺を見る。


小さく尖った顎が彼の細い肩にぐっとのし掛かった。
既に口の利ける状態ではなく、顔を逸らせる事すらもできない。



それでもねえ、その貴婦人が死んでからは随分ほったらかしにされちゃって
長いこと眠ってたんですって。
骨董としていろんなところを流れて、もう起きることなんて ないかもって思ってたんですって。

だけどほら、わたしがあなたに首を絞められたときに・・・



細く骨張った腕がするりと彼の首に巻き付いた。



・・・目覚めちゃったの。



白くて、愛らしい掌でぺたりと彼の頬を撫で上げる。



鏡の力は、わたしの力。
わたしの憎しみは、鏡の力。



かろうじて真辺は自分の回りをあのご大層な造りの姿見が 幾つも取り囲んでいることに気付いた。

鏡の中には、数え切れないほどの自分の姿が映し出されている。
落ちかけた眼鏡、皺の寄った背広、・・・彼の背中にベッタリと覆い被さっている

白い影。

スカートの裾からぶら下がっている二本のふくらはぎと足首が だらりと頼りなく揺れていた。
少女の顔は自分の肩に埋もれていてよく見えない。
真辺はとうにまともな反応が出来ずに立ち尽くすのみで 彼の靴が血溜まりにずっぽりと浸っていることを理解すら出来なかった。



――――・・・ええ、ええ、解ってるわ。
あなたも辛かったのよね?
仙石おじさんの庇護の元でしか生きられずに、おじさんの思うとおりにしか 動けなかった。

・・・わたしを好きでいてくれてありがとう。
わたしを取られたくなくて苦しかったんでしょう?
苦しくて苦しくて
結局、あなたはおじさんには逆らえずに
思い余ってわたしを襲って、首を絞めた・・・・・・・



可哀想ね。ほんとに可哀想。でも。



ぐっと十本の細い爪が頸筋に立てられる。



ゆる、さない――――――――――――――・・・





そのまま爪達がきりきりと食い込んで、もの凄い力で後へ引きずってゆく。
殆ど意識が飛んだ中で、真辺はぼんやりと首のねじ切られた伯父の姿を思い浮かべた。


気を失う寸前、真辺は何処かでぱあん、と何かが割れる音を聞いたような気がした。

闇の中にぼうっと白い手首が浮かび上がる。
優雅な動きで軽く横に振ると、 紅玉(ルビー)を思わせる血液の球がピッと無数に飛び散った。

気を失ったまま、真辺はぐったりと横たわっている。
彼の、倒れ込んだ拍子に外れた眼鏡の傍に 少女は佇んでいた。

あれ程の数に見えた鏡は全て掻き消え、
ただひとつ、枠のみの物が魔実也の足元の床に落ちている。
・・・彼が一歩踏み出すとじゃりっと粉々に割れた鏡の破片が 音を立てた。



割っちゃったのね。
・・・素手でそれを割っちゃう、なんてね―――――

真辺さんは・・・運が強い・・・・・・



少女は俯きながら魔実也の方を向く。
肩より少し伸びた髪がさらりと揺れて、尖った肩胛骨が僅かに動いた。



ねえ、どうして壊すの?
鏡の力がないとわたしは復讐できない。
ねえ、どうして、こんな男を助けるの?




「―――やれやれ。
 本当の鏡を見つけたのは良いが余計な医者代がかかりそうだ」
魔実也は鏡の破片で切れた左手をハンカチでざっと縛ると 少女に向けてにやりと笑った。

「だって君はコレが壊れることを望んでいたろう?」



少女はゆっくりと面(おもて)を上げて、魔実也を直視した。
血の気の通っていない唇をほんのり開いて、 また思い返したように固く噤む。
くるりと背を向けてぺたぺたと階段を上り、やがてその途中で立ち止まった。
魔実也はひびの入った真辺の眼鏡を拾い上げると ゆっくりと少女に近づいてそれを手渡す。
おずおずと伸ばされた指はやはり細くて、頼りなげにそれを掴んだ。

「・・・復讐なら、あんな化け物の手を借りずに君ひとりでやればいい。
 所詮鏡は君を利用して人間を襲っていたに過ぎない。
 君は君の憎悪のために―――何の関係もない他人を犠牲にした」

少女の大きな瞳が、揺れる。

「これ以上鏡と共存を続けていけば、
 君の魂はいずれ鏡と同化して永遠に殺戮を続けることになっただろう」
軽く腰を屈めると魔実也と少女の顔が同じ高さになった。

「もう、やめろ」



ふわりと動くと少女はまた階段をぺたぺたと上がっていった。
二階に辿り着くと、背中を向けたまま口を開く。



――――――父さんもおじさんもわたしを見てくれなかった。
みんな、わたしを通してお母さんを見てた。
誰も、わたし自身を愛してくれなかった。

この人だけが
・・・真辺さんだけがわたし自身を好きでいてくれたのに・・・・・・



「手を、貸そうか?
 彼を殺せば、終わるんだろう」
眉ひとつ動かさずに魔実也は提案する。
それでも彼女は振り向こうとはしなかった。



わたし・・・・・・・・・



わたし、好きだった。

・・・みんな。


・・・・・・わた、し・・・・・・・・・・・・・







魔実也は静かに帽子を取ると ゆっくりと階段を上って彼女の後に立った。
少女は振り向かないまま、顔を上げた。
怪我をしてない右手で魔実也は少女の頭を抱く。
それはちょうど少女の両目を塞いだような形になった。

やがて少女の身体は蜃気楼のように歪み、消えてゆく。

からりと壊れた眼鏡が転がって、魔実也は黙って帽子を被り直すと階下の男を 見下ろした。
生来の無機質な黒曜石の瞳に氷のような輝きが閃く。



「一生彼女を忘れることは無いと思え。
 それこそ、片時も。
 生ある限り―――――――――永遠にだ」
[夢幻紳士 Index]