私の子供は食べられてしまった。
あの、黒い大きな箱に。
私のかわいい、かわいい坊や。
・・・どうしたらいいのだろう。
どうしたらもう一度お前をこの手に抱けるのだろう。
日毎夜毎私はそれだけを考えている。
それだけが私を生かしている・・・・・・


「奇術師?」

艶麗な面を怪訝そうにして青年は聞き返した。
色白の肌に黒いスーツがやけに映える。
青年の向かい側に座っている男は物知り顔で 話を続けた。

「そうなんだ、夢幻君。
 今ちょっとは名の知れている奇術師がいてね。
 ・・・そいつがここんとこ続発している子供達の 蒸発と何らかの関係があると俺は睨んでいるんだ」

「ほう・・・」

その青年、夢幻魔実也はすでに三本目になる煙草に火を点けた。
燻る香りを纏いながら彼は足を組み直す。

「珍しく飲みに誘ってきたと思ったら事件の話か」
「実はな、行方不明になった子供達は消えたその日に その奇術師の興行を見ているんだ。
 ・・・調べところ全員がそうだった」
「それで?」
「そいつがわかったところで俺は自信満々でその奇術師のところへ乗り込んだ。
 ところが、だ。
 のらりくらりと話をはぐらかすのでならば腕ずくでと 奇術師の胸ぐらを掴もうとしたら・・・」

そこで男は大袈裟に肩を竦めた。

「どうしてもうまく掴めないんだ。何度やっても。
 さすが奇術師、といったところか」
そうしてぐいと魔実也に自分の顔を近づける。
「確かな証拠はないが、疑うには充分な材料はある。
 頼むよ、君が調べてみてくれないか。
 君なら奇術師より上をいくだろうしな」

 
時々夢の中で坊やによく似た子供の後ろ姿が 出てくる。
私はとても嬉しくなって急いでその子の肩を掴むのだけれど
・・・振り向いた顔は全くの別人で。
思わずその子を突き飛ばして私は泣く。
もう枯れるだろうと幾度も思った涙は後から後から 湧いて出て、私は自分の嗚咽で夜中に目を覚ましてしまう・・・


小さなシルクハットから無数の小鳩が舞い上がる。
固いステッキは一瞬のうちに色鮮やかな花束に。
コインは硝子のコップをすり抜けていつの間にか 観客のポケットの中へ移動している。
ショーのクライマックスには大きな黒い箱の中に 美女が閉じこめられ、そして何本もの 長剣がその箱を貫いてゆく。
美女が再びその無傷な躰を見せたときには さして広くない小屋の中は大きな拍手が 響き渡った。

会場の片隅で魔実也も観客とともに 拍手を送る。
しかし薄笑いを浮かべたその表情と、おざなりな手の打ち方は 彼が心からそのショーを称賛しているとは 到底思えなかった。



「探偵さんが何の御用ですか?」
ショーが終わった後、薄暗くなった小屋の控え室に居る 奇術師を魔実也は訪ねた。

「近頃頻繁に起こっている子供の蒸発事件についてですが」

魔実也の言に奇術師は細い眉を不快そうに顰めながらも とりあえずは紳士的な態度で答える。

「成る程。そのことですか。
 つい先だってもそんなことを喚いていた無礼な奴がいたが・・・。
 どこの新聞社だったかな」

「お心当たりはないのですか」
「皆無ですな」

強い口調で奇術師は否定すると椅子を立ち、部屋を出ようとした。
魔実也はそれに構わず言葉を続ける。
「確かあなたのお子さんも随分前から姿が見えないそうですね」

奇術師が足を止め、魔実也を振り返った。
こぢんまりした瞳がぎらぎらしている。

「調べたのか」
「ええ、地方の興行のために親戚に預けた、というのは嘘ですね。
 ・・・どうなさったんです?」

奇術師は悔しそうに奥歯を噛みしめた。
細めの躰がやや揺れる。

そして
「個人的事情だ。貴様には関係ない」
と、苦々しく言い放った。

それでも魔実也の薄笑いが消えることがない。
「できたら奇術に使う道具を見せていただきたいのですが?」

まじまじと魔実也の顔を眺めながら、奇術師は無表情になっていった。

「・・・それで納得するのか」
奇術師の重く吐かれた言葉に
「まあね」
と、魔実也は軽く受け流す。



幾ばくかの睨み合いの後、 二人はその場での会話に終止符を打ち、舞台裏へと向かった。

ああ、今日も眠れない。
眠ればあの夢を見てしまう。
・・・私の悲しみはいや増すばかりだ。
どうしたらいいのだろう。
どうすれば、いいのだろう。


様々な道具が強烈な色合いで所狭しと置いてあった。
奇術師は魔実也を案内すると尖った顎をしゃくって 好きに見ろ、と言いたげだ。

しばらくそれらを眺めていたがやがて 魔実也は一際大きな黒塗りの箱の前に立った。
先程、美女が中に入り剣を何本も突き刺すという奇術に使った箱だ。



魔実也はその箱を開けてみようとした。
その時。



魔実也の背後に居たはずの奇術師がいつの間にか 彼の目の前に立ちふさがっていた。
すっと右手をかかげ、魔実也の眉間に触れようとする。


「!」
だが奇術師の手は空を切るだけで魔実也の姿はない。
うろたえる奇術師の首筋に突然ひやりと細い指先が触れた。

「・・・相手の虚をつくくらい、僕にも出来る」

奇術師の肩越しに魔実也の声が響く。
初めて奇術師はその額に汗を掻いていた。

「あなたにとってその箱は特別なものらしいですね」

軽やかに白い手首を翻すと、魔実也は少々乱れた黒い襟を正した。
終始涼しい顔の青年を不気味に思いながら奇術師は 観念したように薄い手の平で両目を覆った。
そして低い声で呻くように漏らす。

「・・・その箱を手に入れた時からわたしの奇術師としての道が 開けたんだ・・・」



ことり。



突然物音がした。
奇術師は振り返ってまたか、といった顔をする。
そこには髪を振り乱した女性がぼんやりと立っていた。

「・・・奥さんですか」

何も言わない奇術師に魔実也は問うた。
のろのろと振り返って奇術師は力無く頷く。

「・・・息子が行方知れずになって以来、まるで夢遊病者のように
 いつもふらふらと・・・。
 特にこの舞台裏を好んではいるようだが」



魔実也はつかつかと夫人に近寄り、その瞳を覗き込んだ。

・・・誰?
誰?
知らないひと。
坊やにしては大きすぎるし。
どうしてここにいるの。
・・・そんな眼でみないで。みないで。
み、な、い、で・・・・・・


突如、黒い箱がばっくりと開いた。
中からやはり黒い、どろどろした煙のような物体が湧いて出てくる。
物体はまるで意志を持っているかのように魔実也の方へかなりの早さで 触手を伸ばしてきた。
かろうじて避けるが彼の黒い帽子はその物体に飲み込まれてしまう。

「ちっ」
軽く舌打ちすると魔実也は夫人の手首を掴み、ぐいと引き寄せた。

「―――あんたの子供に会わせてやる」



ぱたん、と箱の蓋が降りた。

辺りは何事も無かったかのように静まり返る。
奇術師はただ硬直してその場にいた。
夫人の手を掴んだまま、魔実也は奇術師に問う。

「初めてじゃないな。
 この現象が起きる度に子供達が行方不明になったのか?」

奇術師は乾いた唇を舐めながら答えた。
「そう、だ。
 この箱は特別な力を持っている。こいつを手に入れてから 良くも悪くも不思議なことが次々と起こったんだ・・・」



魔実也はそっと夫人の手を引き、近くの椅子に座らせた。
夫人の視線はきょときょとと彷徨い、我が子の姿を探しているようだ。

「あなたは」
魔実也が振り返り、今度は奇術師の方へ歩み寄る。

「あの箱が特別な箱だと、本気で思ってるのですか?」
「?」
「・・・全ては彼女の心の闇が引き起こしたのですよ」
「妻が・・・?」

奇術師の顔にゆっくりと驚愕が拡がってゆく。

「そう」
こん、と魔実也は黒塗りの箱を右手中指で軽く叩いた。
「これは何の変哲もない箱だ。
 おそらくあなたの奥さんは我が子が消えてしまったことによる衝撃で 奇妙な思念体を創り出し、それが先程のような形で顕れてしまった。
 ・・・あなたもその影響を多少受けているように思えます」

奇術師は身じろぎもせず黙って聞いている。

「・・・消えた子供達は息子さんと間違われて どこか別次元に取り込まれているのでしょうが」

そこで魔実也は意味ありげな視線を奇術師に向けた。
「あなたも、あなたの奥さんも、どうもこの箱に執着しているようですね。
 だからこれまでの現象がこの箱から起こったように見えたのです。
 ・・・何故ですか」

夜の闇の双眸が冷ややかな気を孕む。



「あなたは本当に、自分の子供の行方を知らないのですか」








奇術師は己の妻の方へ首を回し、
そしてまた魔実也を振り返る。

「そ・・・うか。
 隠していたはずなのに、妻は無意識のうちに気付いていたのかもしれないな・・・」



「事故だったんだ」
がくりと両膝を着き、その場に座り込んで奇術師はぽつりぽつりと 話し始めた。

「なけなしの金をはたいて大がかりな奇術の道具―――その箱を手に入れて 俺は焦ってた。
 何度も何度も練習を繰り返し、手応えを感じたところで 俺は息子を使ってやってみたんだ・・・・・・」

奇術師は黒い箱に幾つも穿っている穴を見つめた。


「首の、動脈を傷つけた。
 手当したが駄目だった。

 俺は、怖ろしかった。
 そして妻は子供を溺愛している。
 ・・・どうしても知らせるわけにはいかなかった。

 全てを隠した後、不思議なことが続けて起こって
 ・・・俺はこの箱が魔性の箱だと決めつけたんだ・・・・・・」  



深く項垂れる奇術師を覗き込んで魔実也は訊ねた。
「・・・息子さんは、どこに?」


目の前の魔実也の顔は冷たく無機質だった。
形容しがたい圧迫感が奇術師を包む。

奇術師は震える指で小さな赤い箱を示した。
そして細長い鍵を取り出し魔実也に手渡す。

魔実也は片隅で埃を被っている赤い箱に近づき、鍵を開けた。


中を確認してその端正な眉を微かに顰め、漆黒の瞳を曇らせる。
そして夫人の側へ行き、優雅な仕草で耳打ちした。

彼女は嬉しそうに微笑むとよろよろと赤い箱の方へ駆けてゆく。
思うように運ばない脚がもどかしいように。
眼前の幸福が逃げることを恐れるように。





奇術師は己の膝頭の間に顔を埋めたまま、呟く。
「消えた子供達は、還ってくるだろうか?」

奇術師の隣に佇み、魔実也は煙草の煙を吐いた。



「・・・おそらく、大丈夫でしょう」
そう言った彼の手には消えたはずの帽子が戻っていた。



とうとう見つけた。
ようやく抱きしめてやれる。
ああ、手も足もこんなに細くなって。
こんなにカサカサにひからびて。
・・・大丈夫、お母さんがついてるもの。
きっと、元の柔らかな肌に戻るわ。
探して探して探し続けた―――もう見失わない。

早く起きて。

お母さん、って呼んで。

声を聞かせて。目を開けて。
その小さな手で抱きしめて――――――――――
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