それはたやすく形容しようとすれば
まさしく“この世の物とは思われない”声だった。

見事な烏の濡れ羽色をした髪を無造作に束ねて
少女は歌う。

まだ幼い顔立ちをしていながらその唇の動きは艶めかしく円熟ですらある。
そしてそこから紡ぎ出される心地よい音。
酒場にいる殆どの者が目の前の酒を飲むことすら忘れて 静かに聞き入っている。


今夜はその中に夢幻魔実也の姿もあった。

たまたま暇つぶしに入った店で思わぬ収穫をしたと彼は思う。
だが。
普通の人々よりも鋭い感覚を持ち合わせている彼には、 その歌声の中に深く澱のように沈められた 彼女の哀しみが手に取るように感じられた。


彼女が一通り歌い終わると酒場の支配人らしき男が ねぎらうように彼女の肩を抱き、 彼女はそれを合図としてその場をついと立ち去る。
柔らかなスカートの裾から覗く脚はこの暗がりの中で 白く輝いて見えた。

嵐のような喝采が続く中、魔実也は傍らの帽子を手に取って まるで影が動くように少女の後を追った。



―――薄暗いコンクリートの通路で微かな嗚咽が漏れていた。
蒼白い頬を流れる涙は真珠の光を思わせて美しい。

「それほどここに居ることが苦痛ですか?」

不意に声をかけてきた黒尽くめの青年に少女は驚き戸惑った。
そして慌てて逃げだそうとしたが、間髪入れずにかけられた次の言葉に その動きが凍ってしまう。

「あなたは人間(ひと)ではないのでしょう。
 ・・・そして元の場所にもどりたいのですね」


「・・・・・」
暫し、魔実也の顔を見つめた後、少女はひとつため息をついて 小さな背中を冷たい壁に押しつけた。

「あなたには、わかったのですね」

返事の代わりに魔実也は煙草を取り出して 火を点けた。

「そう、わたしは深海に生きる妖怪です。
 決して人と出会うことなど無いはずだった。
 なのに好奇心でうかうかと陸(おか)に上がり、あの支配人に 捕らえられてしまったのです。
 わたしたちは長いこと空気に触れていると泳ぐための尾を失い、ひれを失い、もう二度と海には帰れなくなってしまいます。
 ・・・わたしも例外ではありません・・・ 」

最後は消え入るような声で言葉は途切れ、少女は顔を覆って再び泣き出した。

「ではあの支配人を恨んでいるのですか」

顔を上げ、ゆっくりと魔実也の方を向くと
否定も肯定もせず少女はやるせなく微笑んだ。

「あの人がわたしを必要としてくれるなら、わたしはそれで良かっ た。
 でもあの人はわたしの歌しか聞いてくれない。
 わたしの想いに耳も貸さない。
 もう随分と長いことわたしは二つの感情の板挟みで 苦しんできました。
 ・・・あなたはそんなわたしの心を感じたのでしょう?
 だからこうして・・・」


その時。
酒場の方でがたんと大きな音が響き、 ふたりは慌てて走り戻った。

「おまえのせいだ!!
 おまえが金で俺を騙して、俺の家族を不幸にしたっ!
 許さない、殺してやる!!」

躰の大きな男が日本刀を振りかざして支配人に迫っていた。
客は散り散りに逃げ出して零れたアルコールが強い匂いを放っている。
「死ね、死ね、死ね〜〜!!」
男は上段から大きく刀を振り下ろす。
「駄目!!」
魔実也が止める間もなく少女が男と支配人の間に割って入る。

ザバァ!!

―――辺りに真っ赤な血が噴き上がった―――



「む・・・むむ」
気が付くと支配人は病院のベッドの上だった。
無事だったのかと思わず顔をつるりと撫でて 側に見知らぬ青年が背を向けて座っていることに気付く。
青年は長めの髪をさらりと揺らして支配人の方へ振り向いた。

「・・・彼女は君を庇って亡くなったよ。
 君は何故、深く斬りつけられた筈の傷が そんなに浅いのか判るかい?」

支配人は胸の傷に思わず触った。
なるほど大げさに巻かれた包帯の割には傷みが少ない。

「彼女の心臓だよ。
 その肉を君に喰わせたからだ」

表情を変えることなく淡々と魔実也は言葉を紡ぐ。
「知っているか?
 人魚族の肉を食らった者は不死者になる。
 僕も詳しくは知らないが  心臓を抜き去るか、首をはねない限りは。
 そう、もしかすると君は永遠に生き続けられるかもしれない」


「は・・・、はは・・・」
暫しの沈黙の後、支配人は笑い出した。
「大した置きみやげだ。
 不死か、人類の永遠の夢じゃないか、
 ははは・・・」

乾いた笑い声を背に魔実也はぎしりと席を立った。
彼はあえて伝えなかった。
少女は最期に不死とはいったが不老不死とは言わなかったのだ。

病室のドアを閉じるとき、魔実也は冷たく眼を細めたが 笑い続ける支配人がそれに気付くことは無かった。







おねがい

わたしの心臓を、彼に

わたしを海から切り離した、男に

わたしの存在を商売道具としてしか見なかった、男に



わたし以外の者に殺させやしない

憎くて、愛しい人。



わたしの心臓を食べて生き続ければ、いい

年をとって

肉が落ち、骨と筋だけになっても

生き続けることに絶望しても

あなたは自分の心臓をつぶせず、
自分の首をはねることもできず

わたしの命で生き続ければ、いい



おねがい

それが、わたしの望み・・・・・
[夢幻紳士 Index]