夕闇が迫っていた。 微かな陽の明るさの名残は下手をすれば夜の闇より 視界が利かない。 「・・・?」 剣心は大きく伸びた影のような柿の木の下で 蹲っている人影を見つけた。 手足の細い女の子が膝を抱えて泣きそうな顔をして。 必死に下唇を噛み締めて、ありったけの力を掻き集めているようだった。 「君」 びくりと肩を震わせて、少女は視線を上げた。 おそらく剣心の身体の輪郭しか認識できないのだろう、目を細めたまま 不用意に動こうとはしなかった。 「君・・・迷子?」 “迷子”という言葉に瞬間少女は不機嫌な顔をした。 そういえば迷子とするには少し育ちすぎている嫌いがある。 剣心はけして大きくはない身体を折り曲げて少女の顔を覗き込むようにした。 「・・・お腹空いてるから、動けないのか?」 すいっと視線を彼から逸らして、少女は逡巡するように考えていたが、 やや赤みが差してきた頬を両手で包み込むと小さく頷いたのだった。 「さん?」 「あ、はい!?」 「足りない物があったら言ってくださいね。 最もこんなあばら屋じゃろくなお持てなしは出来ませんけど」 「め、滅相もないです!!充分ですから!!」 おかっぱ頭をぶんぶんと横に振っては 慌てて居住まいを正した。 結局剣心の家に付いてきた彼女はささやかな夕餉を食して、 小綺麗な着物の代えまで用意して貰い、随分と恐縮してしまっていた。 巴は穏やかな瞳でそれを見つめるとすっと立ち上がって、 剣心の方へと近づく。 彼はたくさんの野草を細かく選り分けていて、巴はそれを手伝い始めた。 (・・・薬草かな?結構匂いがきついし) はぼんやりしながら ふたりの様子を眺めている。 彼女を家まで連れてきた青年は彼女に事情(わけ)を聞き出すこともなく、 そして青年の妻らしい女性は殆ど口も利かずに彼女の世話を焼いてくれた。 (・・・変な人たち) ぷくりと頬を膨らませて、そう思うのだけれど 実際彼女はお腹が空いていたし、行く当てもなくて途方に暮れていた。 感謝しても仕切れない。 正座をしたまま、まだ温い湯のみを口にしては 暫く剣心と巴の様子を眺める。 青年は目立つ赤毛をしていて、以外に華奢な印象だったが 精悍な肉付きをしていた。 片頬の傷が惜しいけれど、整った顔立ちをしている。 女性の方も背が若干高すぎるようだが、真っ黒な髪と瞳がとても印象的で 楚々とした美女であることは万人が認めるところだろう。 そのふたりが並んでいるとまるで端正なお人形のようだ。 (・・・ままごとみたい) はふとそんな感想を 思って、つい質問してしまった。 「あの」 「ん?」 剣心が顔を上げて答えた。 「あの、おふたりは・・・夫婦(めおと)ですよね?」 巴は不思議そうに首を傾げたが、剣心は複雑な表情(かお)で微かに 眉を顰める。 だが直ぐさまにこりと微笑むと剣心はぽりぽりと頭を掻いた。 「そう・・だけど、そう見えないかな?」 彼は言葉の終わりの方で、傍らの女性を見遣る。 巴は僅かに目を見張ったが、こくりと頷いて の方を向く。 「さん、お疲れでしょう? もう寝ましょうか?」 なんだかはぐらかされたような感覚がしたけれど、は 実際相当疲労していたので素直に頷いた。 何処か、ぎこちないけれど、剣心と巴のふたりの側は安らぐのだ。 「俺は、部屋の隅で良いから」 剣心は辺りを片づけて、立ち上がる。 そしてにっと笑っての頭をぽんと叩(はた)いた。 「あんまりいろいろ考えないで、楽にしてくれたらいい」 この人はやはりわたしを子供扱いしている。 もう結婚だってしていい年齢(とし)なのに。 不満げなの様子を見て 巴は小さく笑いを零した。 翌朝早く、剣心はまた山へと入っていた。 が目覚めた時刻には 既に巴も畑に出ていて、彼女は慌ててそれを手伝おうと 外へ出た。 「巴さん、巴さん! わたしも手伝います、昨夜あんなにお世話になったし!」 の声に巴は 大きく表情を変えはしなかったけれど、優しい眼差しで迎える。 「・・・気を遣わなくてもいいんですよ」 「いえ!わたしが落ち着きませんから!!」 顔を真っ赤にしてたすき掛けるに 思わず笑いを堪えるように巴が肩を竦めた。 あまり感情を表さない彼女の、そんな仕草はの瞳にも 愛らしく映る。 「・・・巴さん」 「はい?」 「倹心さんとちゃんと、夫婦してるんですか?」 巴は瞠目して、そしてかあっと頬を染めた。 「さん、な、な、・・・」 落ち着いた彼女が慌てているのはますます愛らしい。 「ほら、そんなトコ」 「・・・え?」 「意識しすぎっていうか――――・・・ わたしの両親とか見てるともっと自然ですよ? かといって新婚さんって感じとも違うし」 巴は手に持っていたザルをぽとりと落とした。 そしてそれに気付いて急いでしゃがみ込む。 その背中が酷く頼りなげに見えると考えていると、 巴が背中を向けたまま、口を開いた。 「・・・あなたには、関係ないです・・・ だから・・・・・・」 あっとは口を押さえた。 巴はそのまま農作業に入る。 は項垂れて、暫く 佇んでいた。 自分個人の感情から、余計な事を訊いてしまった。 相変わらず馬鹿、だなあ。 そんな彼女の心情に比例するように、遠くで雷鳴が響いた。 叩きつけるような、雨。 さっき雷が鳴った時にはそんな風には感じなかったのに。 雨足は一向に衰えを見せずにほんの僅かな間に 畑や田を水浸しにしていた。 「・・・酷いですね。これは」 ぽとぽとと彼方此方で雨が漏る。 巴と剣心がこの家に住み始めてから、こんなことは初めてだった。 は山に居る 剣心はどうしているかと心配した。 彼は、冷静に物事を対処する人間だとは思う。 だが。 急激な雨は災害を招きやすい。 家の外の小川すら、既に茶色く変色して身を捩るように流れてゆく。 「崖でも崩れたら・・・」 思わず出かかった言葉を右の掌で押さえて、は 隣の女性を振り返った。 ぽとり。 巴の白い頬に梁(はり)から滴がかかる。 なのに彼女はそれを感じないまま、ずっと小窓を見つめていた。 降り込む雨。 いつの間にか、濡れてゆく足元。 「とも、えさん・・・」 巴はゆっくりとの方へ 顔を動かした。 普段から白い、その顔が蒼白になっている。 形のいい唇が何か言いかけては、すいと閉じられる・・・幾度も。 「巴さん」 は冷たくなった 彼女の手を握った。 「巴さん、押し込めちゃ、駄目だよ」 冷たい、爪。 震えてる。 怖くて。 「わたしでも解る。 ずっとずっと、抑えてるでしょう? ずっとずっと・・・怖れてるでしょう?」 止まない、雨。 止まない、雨音。 「御免ね・・・わたしもそうだから。 自分が、好きな人を不幸にするんじゃないかって。 怖くて。 だから逃げたの。とにかく其処に居たくなかったの。 だけど、振り切れるわけなかったんだよね。 わたしの、裡(なか)の、問題なんだから」 止まらない言葉。 だって、わたしはわたしに・・・叫んでる。 「―――言っちゃった方がいいよ。抑えないでいいと思うよ。 ねえ? 認めたくないけど、真実(ほんとう)なんだから」 逢いたい、逢いたい、逢いたい。 わたしは逃げた癖に、あなたに逢いたい。 ぎゅっと握り返された、掌が熱くなって、 は自分の感情の渦から抜けた。 巴は、今度ははっきりと言葉にしようとしてる。 唇が動く。 「こ、んなに・・・」 掠れても、ちゃんと聞こえる声。 「心配させて・・・こんなに不安にさせて・・・」 「・・・うん・・・ほんとだね」 細くて長い指が、彷徨うように空を切って。 そして巴は両耳を覆った。 巴さんは、気付きたくなかったんだ。 は自分の感情と都合を 巴に押しつけてしまった事を後悔した。 それでも、最初からこの夫婦はお互いを大事にしてることはすぐに 解ったから―――それに甘えてた部分があったとしても、 「抑えてたままじゃ、駄目になるから」 そう独り言のように言葉が零れた。 雨の音が、その世界のただひとつの音になってどのくらい経ったのだろう。 いつの間にか巴はしゃんと腰を伸ばして、 は彼女の傍らに立って、 明るさの増してゆく東の空を見つめていた。 「お世話になりました」 は深く頭(こうべ)を垂れて、 剣心と巴に別れを告げた。 土砂降りの雨から一夜明けた朝は、 草木の匂いが雨のそれと混じり合い、空気がしん、としている。 「・・・心配を掛けたようで・・・申し訳ない」 赤い頭をぺこりと下げて、剣心は微笑んだ。 昨日、もうすぐ闇に落ちる時刻の直前に雨が止み、 やっと剣心は帰ってきた。 ぼたぼた水の滴る着物に構わず巴は彼の姿を見つけた途端、駆け寄って 彼の片袖にしがみついた。 まだまだ遠慮がちだな、とは こっそり苦笑したくらいだ。 「いえ、倹心さんのことだから大丈夫だって思ってましたから。 それよりも」 は人差し指で 右頬を軽く掻きながら照れたように言う。 「わたしは巴さんの方が心配でしたよ。 ちゃんと、ちゃんとした言葉とか態度で掴まえておいてくださいね」 剣心はやや後にいる巴が小さく息を呑んだ事に気付いた。 同時に彼女の息づかいを一番近くに感じている背中が熱くなる。 ぽりぽりとはまた頬を掻いた。 「さん、ちゃんと帰れるのか?」 「子供扱いしないでください。 あなた方のおかげでわたしもやっと気付きましたから。 ちゃんと帰ります・・・正しい所へ」 にっと笑ったの笑顔は まだまだあどけないものの、何処かしら 色香に溢れていて、剣心は目を幾度か瞬かせた。 「・・・そうか。じゃあ気をつけて」 は大きく手を振って 去ってゆく。 剣心も巴も手を振りながら、やがての 姿が見えなくなると今度は互いの顔を見遣った。 「・・・変わった方でしたね。 解らないことも多くて」 「あの身のこなしとかは、農家や商家とは違うようだが・・・」 もしや堅気とは違う世界の娘かもしれない、と剣心は推論する。 一期一会といった小難しい熟語を思い浮かべながら、 剣心はまだ不思議そうに道の先を見つめている巴の たおやかな指に、すっと己の指を絡めた。 巴は俯いて、少し頬を赤くして―――そうして 絡められた指先に力を込めた。 彼女の桜色の爪が、小さく剣心の甲に喰い込む。 「・・・・・・」 瞬間呆気に取られた剣心だが、直ぐさま面映ゆそうな顔をして そのまま暫し、ふたりで朝の冴えた空間に身を委ねた。
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