足元をじっと見つめたまま動かない。 晩夏とはいえ、まだ夕刻の陽射しすらちりちりと首筋を灼くというのに、動かない。 転がる、小さな茶色い物体。 手足を縮めて、節や筋がくっきり見えているのに中身がもぬけの殻で。 じーじーと低い音でなくあの蝉は、この抜け殻の落とし主かも知れない、と考えながら。 「巴さん?」 いつの間にか背後に立っていた少年は、赤くなってきた首筋の後に 優しく触れる。 「何してるんだ? こんな処に突っ立ったまま・・・・・・」 巴の細い頸椎をすっと掠めて、今度はひとつに纏めてある彼女の髪に指を滑らす。 容赦ない陽の熱を吸い込んだ黒髪は、驚くほど熱くて。 紅く染まり始めた山向こうの色彩と相俟って、妙に艶めかしかった。 「ああ、わたしったら・・・」 やっと現実を認識したのか、彼女は真っ黒な瞳を瞠って、恥ずかしげに 片頬を左手で押さえた。 「すみません、ぼうっとしてました」 「―――何、見てたんだ?」 さらりと色素の赤い髪を泳がせて、剣心は彼女の足元を覗き込んだ。 「あ、何でもないん・・・」 掠れかけた声で、押し止めようとしたけれど、彼は既に彼女が先程まで 凝視していた物に視線を縫いつける。 其処に、頼り無く微風に揺らぐ、小さな殻。 「・・・蝉、か?」 「はい」 観念したように、巴は両の目蓋を軽く伏せた。 こんな物を、取り憑かれたように眺めていた自分を、彼はどう思うだろう。 恥ずかしくて、彼の瞳を正面で捉えることが出来なかった。 「うつせみ、って言うんだよな」 「ええ・・・そう、そうともいいますね」 剣心は、はにかんだように鼻の頭をさすりながら、言葉を続けた。 「子供の頃、読む機会のある物語って殆ど無くて。 師匠の趣味だかなんだか解らないけれど、 『源氏物語』の何帖かが置いてあってさ。 それで蝉の抜け殻見ると連想しちゃうんだよ、『空蝉』を」 「そう、ですか」 「・・・何を視ていたんだ?」 「さあ、解りません。 ただ、胸に、迫ってきて」 「?」 醜い、虫だ。 成虫の造形の見事さとはほど遠い、その形態。 動き出しても可笑しくないほど、完璧な形で其処に残された、過去の残骸。 「・・・すごいよな」 「え?」 「これ」 剣心はすっと抜け殻を指差した。 「これを脱ぐと、もう“先”は短いのに。 潔くて、嫌になる」 “それ”は、決められた摂理だ。 けれど、潔い。 「無理です・・・」 「何が?」 不思議そうに、問い返す彼の肩に、巴はそっと額を置いた。 「わたしは、ああいった形では、潔くなれません」 「・・・・・・」 「地中で、くるまったまま眠っていたい。 弱くて、卑怯です」 「・・・巴さんの」 剣心は、細くて頼り無い彼女の指に、己の指を絡めた。 そして頬に当たる彼女の額に擦り寄るように、首を微かに揺らす。 「巴さんの殻が、どんな形でも俺は一生引きずるな。 この蝉のように、小さくても。 粉々になった欠片の一片でも。 それから。 脱皮し損ねて、ずうっと殻を引っ付けたままの巴さんでも、 俺は、全然構わないけど?」 「・・・・ふっ・・」 蝉の殻を、背中にしょった自分を想像して、巴は思わず吹き出した。 にこにこと剣心はそれを眺めながら、彼女の左手を引いて家屋へと歩き出す。 「すみません、変なことを言いました」 「・・・君は、以前から突拍子もない言葉で俺を戸惑わせたけど、 俺、大分慣れただろう?」 「そう、ですね」 軽く袂で口元を覆って、巴は目を細めた。 「少しは感心してくれるか?」 「ええ、してますよ」 巴は、全てを晒すことなく、剣心の妻になった。 それが、彼女自身が望んだこととはいえ、時折彼女を苦しめる。 何も聞かないことは、優しくても、『正しいこと』なのだろうか? ―――『正しいこと』は、彼から彼女を遠ざける結果になるかもしれない。 彼の小さな不安は、そのままずるずると『正しいこと』を先延ばしにしていた。 たん、と戸を引いて、そのまま剣心は彼女の引っ張り、床に押し倒した。 「・・・俺は、君を不安にさせてる?」 ゆっくりと、息が交わるほど唇を寄せてゆく。 「貴方のせいじゃあありません。 わたし自身の、問題です」 「こうやって、君を抱いても意味はないのか?」 唇と唇が、軽く触れ合って。 やがて深く彼女の口を塞いで、舌を差し入れた。 互いの生温い唾液が、ねっとりと相手の口腔を支配する。 次第に身震いするような熱い感覚がのさばってきて、巴は全身から抵抗する力を奪われ、 ただ快楽に流されるままに剣心を貪った。 蝉の声が、遠くなる。 紅く染まった陽射しが、僅かに歪んでいる戸の隙間から、差し込んでくる。 濡れた音が絶え間なく響き、やがて剣心の指が彼女の襟の奥を探り始めた。 漸く酸素を充分に取り込んだ肺で。 いいえ、と巴は呟いた。 「・・・なんだか、悔しいですけど幸せ、になります」 剣心の舌が、耳朶を舐めて、ゆっくりと首筋へ下りてゆく。 くっきりと浮かび上がる鎖骨が、とても綺麗で、剣心は強く吸い付いた。 「悔しい、ってなんだよ? ひねくれすぎ・・・っ」 休みなく働く彼の手は、器用に帯を弛めて襟を深く割った。 はだけた裾から覗く白い大腿をやや乱暴に掴む。 小さな赤毛の頭が蠢くのを、目の端で捉えた。 「それ・・・はっ・・・あっ、あ、あ」 言葉の続きはすぐに喘ぎにとって代わり。 寄る辺なく差し伸べた指は、辿り着いた赤い髪を強く引いた。 蝉の声も、いつもは騒々しい雀の声も、ふたりの空間から排除される。 互いの息と、呻き声と、絡み合う肌の湿りと。 次第に濃くなる闇の色と――――――・・・ もし、自分が残した抜け殻が。 彼を永遠に縛り付けるのならば。 少し嬉しいと、巴は思った。 そして慌てて固く、目を閉じた。
| |