数え切れないほどの燕が群れていた。
既に力強く羽ばたけるようになった子燕達と、 南へ帰ろうというのだろうか。
いつもはうるさい雀たちが気圧されたように姿を見せない。

「賑やかだな」

剣心は薬草の入った籠を背中から下ろすと 額の汗を拭きながら木々を見上げた。
「そうですね、でも雛の頃はそれはそれは煩さかったですよ」
巴は収穫した野菜を洗いながら剣心を振り返って応えた。
少し赤みを帯びた陽射しが彼女の頬の稜線を浮き上がらせて、 剣心の瞳にとても綺麗に写る。
言おうか、言うまいか躊躇していた彼だが きゅっと唇を結んで真っ直ぐ顔を上げて彼女を見た。

「・・・巴・・・」
「はい?」

自然の移ろいとか、剣心の迷いとかには敏感に反応する彼女だが 何故か剣心が彼女に示す恋愛感情には鈍くて、 その度に剣心は戸惑ってしまう。
だが今回はしっかり彼女に伝えようと、 彼は言い出した話題を撤回せずに踏みとどまった。

「明日、天気も良さそうだし、一緒に出掛けないか?」
「・・・・・・・・・」

思った通り、彼女は目を大きく瞬かせて無表情に剣心を見ているだけだ。
しかしこの頃はそうした仕草も可愛く思えるのだから 本当に恋は盲目である。

「君に、見せたいものがあるんだ」

柔らかく微笑って、それから剣心は照れたように俯いた。
数瞬後巴はほんのり頬を赤らめて、頷く。
勿論、無表情なままだがそれでも瞳が少し潤んで、小さな唇が うっすら甘い吐息を吐いて。

幼い恋人達はこうして手を繋いで、家の中へ入っていった。





翌朝早くふたりは連れだって山へと向かった。

朝露に濡れる道を、時に剣心が巴に手を差し伸べながら、登ってゆく。
細い獣道の草を踏みしめる度に、濃い緑の匂いが立ち込める。
やがてふたりともうっすら胸元に汗を掻き始めるが、 それでも山が深くなるにつれて色づいた樹々を目にするようになっていった。

「・・・疲れた?」
普段から山を歩くことに慣れている剣心は息も切らさないで後を見遣った。
ふるふると巴は首を振るが既に肩で息をしている。
剣心は木陰のある、適当な場所を見繕って休むことにした。
「ごめん、無理させて」
済まなさそうにして彼は水筒を手渡した。
まだ冷たい水をこくりと喉を鳴らして一口飲むと、巴は ゆっくり首を横に振る。
「あなたが見せたいものって何ですか?
 ―――――とても楽しみにしてるんです」
彼女の目元が、優しくなった。
それは傍目に判りにくい笑顔だったが、剣心のとっては極上に近い表情だ。
「・・・うん。
 この間薬草を採ってて気付いたんだけど、 この先にびっくりするほど綺麗なところがあったんだ」

色素が薄くて赤い髪がさらりと風に揺れた。
左頬の大きな縦傷も意識できないほど、彼は優しい顔で巴を見つめてくる。
彼女自身気付いてはいないが彼から視線が、外せない―――・・・

「それを」
やっと出てきた言葉はやや湿りを含んで。
「わたしに、見せたいって・・・・・・?」
こくりと剣心は頷く。
時々そういった仕草の中に彼の若さが見え隠れして、巴の頬が弛む。
「わたし・・・今日、楽しみにしてました」
とても、と俯いて小さく彼女は付け加えた。
艶やかな黒髪がゆらりと彼女の胸元に落ちて、心地良い香りが鼻先を掠める。
小花を散らした青地の着物がさらさらと音を立てたかと思うと 彼女はすくりと立ち上がって剣心を覗き込むようにした。

「とても」

小さな声で、今度ははっきりと告げる。
「・・・うん」
剣心も立ち上がって嬉しそうに彼女の手を握った。





やっとそこに辿り着いたとき、剣心は大きく深呼吸した。
二、三歩遅れてくる巴を振り向き見て笑う。
そして、がさがさと枝を掻き分けると彼女に先に行くよう促した。
巴も頷いて彼の腕に掴まるようにして踏み出すと、 急激に開けた視界に一瞬戸惑う。

「・・・・・・」
なんと形容すれば良いのだろう。
綺麗、と言ってしまえばいいのか。
華美でも荘厳でもない、凛とした美しさ。
鳥の声と、葉擦れの音と、風のざわめきしか聞こえない、世界。
・・・ふたりは暫くの間、其処に佇むしかなかった。


眼前にあるものは、小さな湖だった。
その、信じがたいほど澄んだ湖面に秋の色に染まり始めた山々を置き、 天空の抜けるような青さと、たゆたう雲を忠実に映し取っている。

ああ、この男性(ひと)は私にこれを見せたかったのだ・・・・・

ゆっくりと巴は後を向いて剣心を見た。
相変わらず彼は微笑んでいたけれど、小萩屋に身を寄せていた頃は そんな風に笑った事など一度も無かった。
いや、笑えなかったのだろう。
自分は彼にちゃんとした言葉を返したことも無ければ、 己の素性を明かすこともしていない。
怪しまれたり、疑われたり、・・・最悪斬られたりされても 可笑しくはないのに。
彼は現在(いま)目の前で、彼女が泣きたくなるほど無垢に・・・微笑う。
己自身を蔑むように嗤っていた人が。

長いこと身動きしない巴に剣心は首を傾げた。
「どうかしたか?」
一度目蓋を閉じて、巴はさっきまでの思考を切り捨てる。
「いいえ。・・・ただ驚きすぎて」
微笑み、とまではいかないが彼女の表情は穏やかで、 それを見て取った剣心は安堵した。
「なら、いいんだ―――」

いつも何処か張り詰めている君が、僅かでも肩の力を抜けるように・・・それが ここに来た目的のひとつでもあるのだから。


そのまま、黙ってふたりは湖面を見つめていた。
ゆっくりと過ぎ去る時間(とき)が 居心地良く感じられたのは久方ぶりで。
例えば追い縋ってくるような 憎悪と焦燥と悔恨と、
そして流れる血と浴びる血と。
それらがまるで別世界の虚像の様に感じられる。

「鏡、みたいだな」
おそらく頭の中でふと浮かんだだけであろう言葉が ぽろりと剣心の口から零れた。
巴はじっと湖面を見据えたまま、応える。
「・・・そうですね。
 鏡、というのは影見から転じた言葉だと聞いたことがあります。
 こうしてこの自然が創り上げた眺めを目の当たりにすると本当に言い得て妙ですね」
「影、を映すか・・・・・・」

男も女も同じ事を考える。
あの、湖面に己の姿を映したら。
きっと醜い。

巴は我知らず身を乗り出していたようだ。
ぐらりと揺れた足元に気付いたときには剣心に腕を掴まれていた。
「無理だよ、ここから先は斜面が急で危なすぎる。
 汀には行けない」
「ご、ごめんなさい」
剣心は気にしてない、と言った風に首を振った。
それでも掴んだ腕は、離さない。
巴はおずおずと彼の袖を逆に掴んだ。
そうして体の重心を彼の細い身体に預ける。
とくん。
彼の鼓動が、酷く切なかった。

「もう、帰ろう。陽があるうちに山を下りないと」
優しく肩に回された腕に、気付かないふりをして頷く。
意識すればするりと離れていきそうだから。


(どちらが影なんだろう――――――)


「え?」
数歩その場所を離れかけたとき、不意に聞こえてきた言葉に巴は思わず声を上げた。
慌てて剣心を見上げて
「何か言いましたか?」
と問う。
剣心は呆然とした感じで己の唇を抑えていた。
再度巴は問おうとしたが、彼女の中の何かが強くそれを引き留める。
「・・・いえ、気のせいでした・・・・・・」


剣心は暫し瞬きもせずに彼女の黒目がちな瞳を覗き込んだ。
それから不躾だったと思ったのだろう、慌てて顔を反らすと すたすたと歩き出す。
それでも左手で彼女の右手をぎゅっと握ったまま。

かなりの早さで剣心は歩くので半分巴は引きずられる形になった。
転びそうになって慌てて声を掛ける。
「あ、あのっ・・・」
すると突然立ち止まった剣心はくるりと彼女の方を向いた。

「俺は馬鹿だ」
「・・・あ、の」
「一瞬これまでがあの湖に映った世界のように、影なら、と考えた」
「・・・・・・」
「京都で、あれだけ人を斬っておいて―――それが全て虚像ならって」

下唇を噛み締めて、悔しそうに
「影は全て現実を模してるだけなのに。
 本当はこの、里の暮らしこそが虚像なのに・・・・・・・!」

吐き捨てた。



風が、冷たさを孕んで強く吹き抜ける。

ざあっと水面が波立つ音が、幽かにした。
乱れた髪を撫でつけて巴はゆっくりと右手を剣心の頬にそうっと置く。

「―――いいえ」
「とも、え・・・・・・」

「いいえ」



影でも、虚像でも、今は。
ふたりにとっての真実。だから、お願い。
振り返らないで下さいな。
・・・せめて、今は。



「ごめん、どうかしてた」
巴は否定の言葉だけで他になにも言いはしなかったけれど、 彼女の冷たい指先から、彼女の心が流れ込んだような気がした。
それはとても温かくて、剣心の胸の中で確かに脈を打つ。

「いいえ」

今度は彼の耳元で、彼女の吐息が、語りかける。
「・・・うん」
小さくて、細くて、そんな彼女の肩を抱きしめながら。
剣心は子供のように、縋り付いていた。


どあああ!!すみません!!
結末が急転直下してしまいました! m(__)m
ほのぼの、ほのぼの、・・・どこにもない、微笑ましさ(ToT)
若い恋人同士がじゃれあってるんです、微笑ましいでしょ・・・
ってなわけない!
ぷうこさん、みき出直します・・・許して〜〜(百叩きの刑!!!)
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