さら、と襖を開けてもそこに見慣れた姿はなかった。
「・・・」
今日は黒い封筒が手渡された様子はない。
だとすればいつもそこの壁を背にして、浅い眠りに就いている時刻なのに。
厨房の手伝いを終えてこの部屋まで戻ってくる短い道程を振り返ってみるけれど、 剣心がその何処かしらに居たような感じもなかった。

「・・・・・・」
大きく開かれた窓の障子。
ゆらゆらとくすぶる蚊取り線香。
むっとした空気が淀み、溜まり。
酷く今日は蒸し暑い気がした。
巴は僅かに首を傾げた。
何処か涼を求めて出ていったのだろうか?
長州の仲間達は賑やかな輩が多いし、連れだって呑みに行ったのかも知れない。

「・・・」
だが、剣心は己の存在が幕府方に知られているのでは、と懸念していた。
そしてそのことが正しいということを。
他ならぬ巴自身が知っている。
剣心はあの夜から、今まで以上に行動に慎重になった。
ふらふら歩くことは考えられない。
いろいろ思索にあぐねて立ち尽くしていると
「どうした?」
と、いきなり剣心の声が背中にかかってきた。
はっとして慌てて振り向くと、不可解な表情(かお)で剣心が佇んでいる。
「中に入らないのか?」
そう云いながら剣心はすたすたと敷居をまたがって部屋の奥へと歩いていった。
巴も慌てて襖を閉めて、彼に倣うかのように部屋へ入る。
「すみません、あなたがお部屋にいらっしゃらなかったので」
胡座をかいた剣心が合点がいったかのように頷いた。
「そういえばいつもの行動の型じゃなかったか」
急須に茶葉を入れ、ゆっくりと蒸しながら。
巴は頷いた。
「ちょっと、驚きました。
 普段目にしているお姿がないと、結構慌てるものですね」
「慌てる?君が?」
丁度いい頃合いに注がれた茶を啜りながら、剣心は目を見開く。
巴は素直にこくりと頷いてはいるが、無表情な彼女から、 慌てた様子など微塵も感じられない。

(ま、いいか)
多少は心配してくれたのだろう。
それを快く感じながら、また茶を啜る。
会話が弾むわけでもないのに、狭い部屋でふたりきりで過ごす。
そのことに違和感を覚えない自分が不思議だった。





翌日女将に蔵から、とある塗り茶碗を出してくるように頼まれて、 巴は滅多に足を踏み入れない中庭の隅に来た。
錆びた閂に手を掛けようとして。
視界の隅に見慣れた赤毛を捉える。
「・・・?」
こんな昼間に、何故ここに?
木の枝に紛れるように立っている彼の背中は、 辛うじて半分ほど見えるだけだ。
彼には彼なりの理由があるのだろう。
それは巴にも充分すぎるほど解っている。
第一、自分がここまで彼の行動にぴりぴり気を張る必要はないのだ。

・・・幾ら、敵を討つ為とはいえ。

巴はそのまま自分の仕事に専念しようとした。
だがその時ちら、と見ることが出来た剣心の横顔に。
思わず唖然としてしまう。

(・・・優しい表情(かお)をしている)

彼が思った以上に子どもっぽいことや、感情の起伏が大きいことを、 巴は疾うに知ってはいたが。
これほど慈しむような穏やかな表情(かお)は、まだ知らない。

巴の足が、無意識に剣心の方へ動く。
―――気配に敏い彼が容易に自分に気づくことは解っていた。
むしろ自分に、気づいて欲しかったのかもしれない。
数歩、近づいただけで案の定剣心はすいとこちらへ顔を向けた。
薄い色素の、大きな瞳を更に見開いて。
唇が小さく「あ」と呟いたのが解る。
巴はそれを見て取り、ゆっくりと会釈した。
そのまま彼の直ぐ傍まで歩む。

「・・・こんなところで、何をなさっているのですか?」
剣心は気まずそうに視線を逸らしたが、生真面目にちゃんと応えた。
「いや、ちょっと気になることがあって・・・その」
「気になる事って?」
「・・・え・・・その・・・」
歯切れ悪く返事をしていた剣心だったが、諦めたように小さく息を吐くと。
顎である方向を指し示す。
「・・・・・・あれ、なんだ」

巴は剣心の視線の向かう先を見た。
比較的大きな樹の根本の窪みに。
薄汚れた灰色の猫が、一匹蹲っている。
目を凝らすと、どうやらそれは母猫で、直ぐ脇に小さなやはり汚れた灰褐色の 子猫が寄り添っていた。
「・・・どうしようかと、昨日から考えてたんだ」
「何を、ですか?」
「ひもじそうだから、何か喰わせようか、とか」
「・・・そうですね、特に子猫の方はまだ母猫の乳が要るでしょうし」
「うん、だけど」
「だけど?」
剣心は本当に困ったように俯き。
ぼそぼそと話を続ける。
「野良、だからさ。
 人の手垢をつけたくないっていうか。
 放って置いた方がアイツらの為かな、とも考えてしまって」
「・・・・・・」
「心情的には可愛がってやりたいところだけど。
 俺たちいつまでこの宿に逗留するかわからないし。
 かといって女将さんに迷惑もかけたくないし」
少し朱が奔った彼の頬が、可愛い、などと巴は考える。
「だけどどうみても母猫の乳の出が悪そうだから。
 餌だけでもやっていいかな、とか・・・」

剣心が一通り説明し終わった時、くくと 巴は小さく喉を鳴らして笑った。
剣心がびっくりしたように巴を見る。
笑った彼女を見るのは初めてかも知れない。
紅い唇が綺麗な弓を描いて。
白いうなじに、黒い髪の毛がふるふると触れる。

「―――では、こうしたらいかがですか?」
笑いを納め、猫たちに気取られぬよう。
巴が剣心の耳元で囁いた。







「飯塚さーん、巴ちゃん知りません?」
若侍が丁度通りがかった飯塚に訊ねた。
「いや、知らねぇなあ。
 なんか彼女に用か?」
「いえ、そういう訳じゃないですけど。
 最近姿がぱっくり見えなくなるような?」
飯塚ははあ、とため息を吐いて若侍の頭をはたいた。
そうして右の小指をぴん、と立てる。
「おまえ、巴ちゃんのコレでもねえくせに付きまとってんのか?」
「い、いえ、そんな訳では・・・っ」
「厠とか化粧とかさぼりとかあんだろーよ。
 どうしたってこの小萩屋の何処かに居るんだから、 細かいこと云うんじゃねえ!」
「は、はあ・・・」
解せぬ顔で若侍は叩かれた頭を撫でた。
「お、そういえば緋村知らねえか?」
今度は逆に訊いてきた飯塚に素っ気なくいいえ、と答えて 若侍は去っていった。
顎の無精髭を撫でながら、飯塚は緋村の女に懸想するとは 大した馬鹿だとへらへら笑う。
そして、ふと思い当たったことに我ながら仰天した。
(おい、もしかして・・・“あいつら”一緒に居るのか?)

だがそれは飯塚にとっては都合の良いことで。
長州にとってはどうでも良いことだ―――現時点では。







「あ、ほら食べてますよ」
息だけの声が。
剣心の耳元で囁いた。
ふたりの肩は触れるか、触れないかという程の距離で。
そうしてふたりして、同じ方向を一心に見つめている。
「ああ、ほんとだ」
剣心は落ち着いた声音で答えるが、その顔はとても嬉しそうで。
すぐ脇に居る巴は、彼に気づかれないようにこっそりと、幾度も幾度も 視線を彼の顔に奔らせた。
「君が残飯の手に入りやすい場所へ誘導したおかげだな」
「ここの女将さんはきっちりした方ですけど、お侍さん達の中にはだらしない 方もいらっしゃいますから」
「・・・巴サン・・・」
「子猫も随分丸くなったように思いますわ」
「そうだな・・・ちゃんと、大人になればいいな。
 飢えることも母親と離れることもなく。
 大きくなればいい」

剣心は死に別れた親や兄姉を思い浮かべた。
どうしようもなかったとはいえ。
もしも家族一緒に生きていけたなら。
―――血の匂いに倦む自分は居なかった、はずだ。

「・・・どこか、痛むのですか?」
その時、唐突に肩越しに巴が訊いてきた。
剣心は弾かれたように彼女の顔を見る。
巴はそれに少し気圧されたように瞳を大きくした。

「ど・・・うして?」
「いえ、痛みを我慢しているような顔をなさってたから・・・つい」
「俺が?」
「はい」

剣心はぎゅっと唇を噛んだ。
それを見て巴は反射的に剣心の唇へ己の指を持っていった。
夏なのに僅かに冷たい彼女の指先が。
つ、と薄い剣心の唇を滑る。
「いけません・・・切れますよ」
「―――――・・・」

「・・・どうかしましたか」
固まったように動かなくなった剣心を不審に思って。
巴は彼に訊ねた。
何でもない、というように首を振る彼の。
何かを求めるような、恐れるような・・・まるで 大事なものを抱えて困っているような表情(かお)が。
気が付けば巴の、視界いっぱいに広がって。

やがて。
唇と唇が優しく触れあい。
直ぐさま、離れる。

―――動いたのは剣心なのに、彼は大きく瞠目して己の行為に 戸惑うような態度を見せた。
巴も零れそうなほど瞳を見開き。
やがて俯いて、先程の口づけをごまかすかのように 幾度か長い髪を掻き上げる。

(どうして、俺)
(嫌、じゃなかった)
(どうして・・・彼女に)
(・・・わたし、厭じゃなかった・・・)

その先を、彼女は考えない。
その先を、彼は行動しない。

いつものようにそれぞれの持ち場へ戻って。
また明日にはこうして肩を並べるのだろう。



『その先』は、あと少しで。
答を出すことになる。


こ、これは人目を盗んでいるのか・・・?(^-^;
ラブくしようと思ったのですが、おふたりがぎこちないこと・・・(T▽T)
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