「娘が、消えた」 恰幅のいい中年の男は少し出てきた腹に皺を刻むように 前へ身を乗り出した。 大理石造りのテーブルを挟んで黒いスーツの青年が やれやれといった表情(かお)で両手の長い指を組んで 細い顎をそこに乗せる。 「行方不明のお嬢さんを捜すのなら警察が適任でしょう」 「・・・いや、それは・・・」 男は視線を大きな窓の方へ向けた。 逡巡した挙げ句、厚い唇を舐め、漸く青年に事情(わけ)を話し始める。 「実はちょうど今、家内と別居中でしてな。 まあ、行く行くは離婚を考えております。 ・・・ですからこんな時期に娘が行方知れずなどと騒がれては示しがつきません」 大方自分が浮気でもしたのだろうと、その青年―――夢幻魔実也は想像した。 全く娘と自分の体裁とどちらが大切なのか。 「仕方ありませんね。 一応、あたってみます。 お嬢さんの特徴とか姿が見えなくなった頃の状況を教えていただけますね?」 どこか薄暗い玄関まで来ると、 この家のメイドが小走りで近寄ってきた。 「お客様、お忘れ物です」 魔実也が振り返ると 両手に抱えた大きな帽子を差し出す。 「ありがとう」 うっすら微笑って彼は礼を言う。 メイドはきつめのパーマをかけた髪を揺らして、吊り上がり気味の 瞳を細めた。 「君は、この屋敷に勤めて長いのか?」 「いいえ。ここ一年くらいです」 やや頬が赤みを帯びて、声が上擦る。 「お嬢さんは仔犬を飼っていたそうだが、ここの主人は最近見かけないと言ってたな。 君に心当たりはないかい?」 「いいえ。多分何処かで迷ってるか、森の中で大きな動物にでもやられたんじゃあないかしら。 勿論、そんなことはお嬢様の前では言えませんでしたけど」 魔実也は帽子を受け取って優雅な動きでそれを身につけた。 コートの襟を立てて、敷居を跨ぐその時に右斜めに振り返る。 「・・・ここの奥さんは」 「え?」 「君とは正反対のタイプだそうだね」 瞬間、メイドの眉間に数本の皺が刻まれた。 にやりと唇を吊り上げて魔実也が笑う。 「失敬。何か、怒らせるような事を言ったかな」 依頼人の屋敷は鬱蒼とした森の中にあった。 魔実也は所在なげに煙草に火を点けるとギャーギャーと煩い烏の啼き声に うんざりだ、といった表情(かお)をした。 「どうしてこんな所に屋敷を建てるんだか。 陽が落ちれば仔犬どころか、子供だって目を離すと探せなくなるぞ」 そうぼやいて、足早に立ち去ろうとした時。 何かを引きずるような音に魔実也は気付いた。 ずずっ、ずっ ずずっ、ずっ のろのろと、しかし確実に近づいてくる。 漸くそれは、魔実也のすぐ後にやってきて止まった。 ふうっと煙を吐き出して、 「やあ」 と声を掛けて振り返る。 それは予め約束していた知人が待ち合わせ場所にやっと到着した、といった 感じだった。 魔実也が声を掛けた其処にはひとりの少女が立っていた。 ――――いや、少女で在った、ものだった。 なぜならその滑らかで白かった筈の頬はどす黒く変色して ぼこぼこと膨れ上がっていた。 細い首はねじ曲がって小さな瞳は魔実也の方を向いているのに 彼女の顔全体は彼女自身の肩の後の空間に向いている。 子鹿のように走り回ることの出来たであろう左足も膝の関節からだらりと ぶら下がっているだけの無用の長物と化していた。 ただ、その黒目がちな瞳から流す涙は赤銅色の空の光りを反射して きらきらと美しく零れてゆく。 「・・・やはりな。 とうに手遅れな訳だ・・・・・・」 夜も更けた頃、メイドはこっそりと裏庭から外へ抜け出した。 耳を切るような寒風も 足元に纏わり付く枯れ草の葉も 時々頬に当たってゆく小さな虫の羽音も 彼女の神経にその記憶を遺すこともなく。 ただ、ランプを片手に彼女は走る。 やがて息切らしながら彼女が辿り着いたのは数メートルは落差が有ろうかと 思われる切り立った崖の上だった。 怖々と腰を屈め、崖の端ぎりぎりまで近寄って 下を覗き込む。 崖下まで届かぬ灯りに苛々しながらメイドは何とかして 確認しようとしていた。 「・・・わかりゃしないわ。 そうよ、証拠なんてない。事故よ。事故だもの。 ははっ、何を気にしてるの・・・」 どう角度を変えて覗いてもこの暗闇で下の様子が解ることもなく 諦めたメイドは自嘲しながらひとり呟いた。 そうして再び慎重に後ずさろうとした時、どん、と尻に何か 柔らかな物が当たる。 「?」 頬を痙攣させながらメイドは確認の為に首を後へ捻り、 そのまま恐怖のために凍り付いた。 「・・・ひい、ひ・・・いぃぃ・・・、 ひ」 そうして吐き出された細い息がやっと音声になっても、それは言葉にはならないまま。 屋敷の主人は寒さに身を竦めながら 魔実也の後をのろのろと付いてくる。 「一体朝っぱらから何かね? 娘の手掛かりでも掴んだのか?」 白い息と共に魔実也が振り向き、視線が絡み合う。 彼の持つ雰囲気が更に寒気を呼んでいるような気がして それが薄気味悪くて男は暫し押し黙った。 やがて立ち止まった魔実也に促されて男は崖がすぐ目の前にあることに 気付く。 「こんな分かり難いところで道が切れているのか・・・」 そう言った後。はっと気が付いて慌てて端に走り寄った。 「ま、まさか!!」 殆ど四つん這いで下を覗き込んで男は絶望の声を上げる。 そこには後頭部から血を流して仰向けに死んでいる彼の娘と すぐ傍には彼の屋敷のメイドであり、彼の愛人であり、 彼が妻と別居する理由となった女が 頭を岩に砕かれて脳漿を撒き散らしていた。 少女はこびり付いた黒い血の跡を除けば綺麗な顔で眠るように横たわっている。 その蝋のような肌が死を感じさせているだけだ。 だがメイドの方は紺のスカートを乱れさせ、赤黒い舌を大きく開いた口から 覗かせ、醜悪とも言える表情だった。 「どういうことだ・・・」 呻くように呟いて男はその場に蹲った。 「夢幻君、君はどうしてここに娘がいると解ったんだ? それに何故彼女まで死んでるんだ?」 その問いに答える前に魔実也はがさがさと数メートル先の茂みに 入っていった。 やがて左手に小さな白い物体を抱えて現れるとその手に持ってる物を 男に見せた。 「・・・こいつが教えてくれたんですよ」 それは小さな仔犬だった。 白かったであろう毛は泥で汚れ、首が変な方向に 捻られている。 よく見ればその片脚も骨が砕かれたように変形していた。 「娘さんの犬ですね」 呆然としたまま、男は頷いた。 「おそらくはこうです。 あのメイドとあなたの関係を娘さんは知っておられた。 その事で娘さんとメイドは険悪ではなかったのですか? いずれにしろメイドは娘さんを殺そうと考え、 ・・・この仔犬を利用したのです」 男は大きく目を開いたまま、身じろぎもしない。 「そう、多分仔犬を傷つけてはその鳴き声で娘さんをここまで誘導したのでしょう。 ―――随分かわいがっていらしたようですから」 「確かに、あの子は犬の姿が見えないと言って大騒ぎしていた。 でもまさかこんなことになるとは・・・」 魔実也はポケットから白いハンケチを取り出し、抱いていた仔犬を軽く包む。 「あいつは・・・彼女はどうしてここで死んでいるんだ? 何のためにここへ来て、 ―――落ちてるんだ?」 黒い帽子の鍔先から細められた瞳がちらりと覗いた。 「少しだけ、鎌を掛けておいたんですよ。 ただ、どうしてここから落下してるのかは僕も知りませんがね」 くくっと細い喉が鳴って魔実也はその紅い唇を吊り上げる。 「・・・きっと何か見たんじゃあありませんか? そう、僕でも身震いするようなものを、ね」
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