微笑(わら)って

それだけを、望んだのに







津々と雪が降る。
白くけぶる視界の先に。
やはりまっしろな小袖を着た女性が佇んでいた。

(姉さん)

声が出ない。
彼女は気付かない。
ゆるりゆるりと向こうへ歩み去ってゆく。

(姉さん)

声が出ない。
凍える足を叱咤して、動かす。
ふと視線を落とせば細くて小さな、頼り無い自分の足。

(いつだろう)
(この足、この感じ)

あの頃だ。
唐突に解る。
姉さんを喪った、あの頃の自分だ。

(・・・姉ちゃん)

声が出ない。
去ってゆく。
追いかける。
まろびながら、追いかける。

指先が、届きそうだ。





「微笑(わら)って、くれない」
「ホホ、そうか、おまえさんは微笑って欲しいのか」

縁の独り言を貧相な老人は勝手に聞き取り、勝手に解釈をした。
じろり、と縁は老人を見るが、それは本当に見るだけで何の感情も 含んではいない。

「・・・微笑って、欲しい・・・か」
老人は誰に聞かすこともなく、再度ぼそりと呟いた。
「身勝手で、贅沢で、独り善がりな言葉じゃ。
 だが・・・想いが深い」
どっこらせ、と腰を上げ、老人はぽんぽんと縁の頭をはたく。
そうして和紙に包まれた干物を縁に前に置いた。
「喰え。
 生きてゆかねば答も見つからんよ」

ぼろぼろの、人間達が集う場所。
何をするでもなく、ただ生きているだけの人間達の場所。
滑稽なことに、その中でただ動かないのは縁のみだった。
自分は『此処』に居る人間達より、ぼろぼろだ。
なのにあの老人は捨ててないと云う。
何を?
何を、俺は。

捨てられない――――――――?





「微笑ってくれない」
「・・・ああ、そうか、微笑ってほしいのか」

繰り返す、言葉。





まっしろだ。
まっしろだ。
何もなくなって、からっぽな自分。
白い、白い、雪。
白い、白い――――――姉さん。



まろぶ、まろぶ。
小さな彼は縺れる足を動かして、姉の元へ駆け寄ろうとする。
「姉ちゃん、姉ちゃん、姉ちゃん」
もう少し。
あと少し。





「微笑ってくれない」
老人は、彼が少し食べ残した干物を見た。
しょぼしょぼと目を瞬かせ。
以前、それでも剣を手放さなかった男を思い浮かべ。
現在、それでも古ぼけた紙の綴りを手放さない男を見る。
「・・・目の前に、小さな子どもが居る。
 子どもはずっと泣いている。
 君は、子どもの涙を止めてやりたい。
 さあ、子どもの目の前に立った君は。
 まずどうする?」





がくん、とつんのめりになった。
次の瞬間に襲ってくる衝撃を予想して目を閉じた。
だがそれは。
柔らかな何かに吸収される。
「・・・気をつけて、縁」
「姉・・・ちゃん・・・」



あれ程傍にいたいと願った彼女が、幼い自分の手を引いている。
嬉しくて、懸命に彼女の顔を見ようとするけれど。
まっしろな雪が反射して。
よく見えない。

「姉ちゃん、姉ちゃん」
「なあに?縁」
「姉ちゃん」

何を云おう、何を訊こう、何を・・・・・・・

「―――俺が好き?」
「ええ、好きよ」
「俺が大事?」
「ええ、とても」
「じゃあ、じゃあ、じゃあ・・・・・・」



微笑って



巴はぴたりと歩みを止めて。
ゆっくりと振り返る。
ぎらぎらした雪の反射が酷くて、眩しかった。
彼女は冷えた手のひらで、縁の頬を包み。
屈み込む。
「姉ちゃん・・・」

よく見えない。
わからない。
でも、解った。
最愛の姉は、微笑ってはいない。

「姉・・・ちゃん」


あなたが、微笑ってないのに?


良く聞こえなかったが、確かに彼女の唇はそう動いた。
「姉ちゃんが、俺に微笑ってくれたら、俺も」
ゆるゆると、巴の首が振られる。
「・・・縁、あなたはもうわたしの年齢(とし)を越えた。
 わたしが、あなたを赦せば全てが赦されるの?
 いいえ。
 いいえ。
 ―――あなたはもう、自分で考えなさい」
がくがくと膝が震えた。
自分の頬に当てられた、彼女の指が氷のようだ。
「何云ってるの?
 わかんない、わかんないよ。
 姉ちゃん、姉ちゃん、ねえ・・・さん!!」


わたしは、存在しない。
わたしはあなた達の心を映すだけ。
けれど、忘れないで。

愛してる






「父さん!!
 なんで動かないんだよっ!?」
彼女は出ていってしまった。
許婚を喪って。
哀しみ、絶望し。
そして、恨み。
真相を知りたいと、彼を置いて出ていった。
「姉ちゃんを連れ戻さなきゃ!
 姉ちゃんを助けなきゃ!」
怒鳴り散らす幼い息子へ、気弱な父はただやるせなく笑むだけだ。
「わたし達が出ていったところで、あの娘(こ)に 何をしてやれると云うんだ?」
「だからって、じっとしてるのか!?
 だからって、こうしてるのかよっ!?」
「巴が決めたことだ。
 あの娘は自身で判断し、自身で行動する。
 わたし達は所詮あの娘自身ではないのだから」
「・・・っ、いやだ、いやだ!
 なんとかしなきゃ、なんとかしてあげなきゃ!!」



なんとか。
俺が。
やらなきゃ。
俺が。



「傲慢だ」
鋭い響きが聞こえた。
「思い上がりだ」
誰の声だ?
聞いたことがある。
誰だ?
「この手で何が変えられるっていうんだ?
 思い上がった果てに助けられなかったと、変えられなかったと嘆いて。
 蹲ってじっとして・・・何だというんだ?」
誰だ?
「闘える。
 俺はまだ、動ける。
 永劫に赦しに届かなくても・・・」
誰・・・?





ぼたぼたと、涙が零れた。
白い白い雪の上に。
幾つもの透き通った穴を穿ってゆく。

守りたかった。
守れなかった。
自分自身への失望、落胆、怒り、憎しみ。
どこかで。
すり替えた。



「う・・・っ」
弱い、弱い、弱い。
俺は脆弱だ。
あの時も、そして今も。
その事に目を背けて。
犯し続けた・・・罪。

「うっ・・・うっ」

「泣かないで」
たおやかな腕が。
彼の頭を優しく抱き込む。
「まだ泣けるのね・・・よかった。
 まだ心は息づいてるのね・・・」

目線を挙げてもやはり眩しくて。
彼女の表情は見えなかった。





「ホッ、行くのかい?若いの」

二本の足が。
大地を踏み締める。
靴裏からじゃり、とした感覚が脳髄を駆け上る。
「・・・微笑って、くれたのかの?」
老人の囁きを、確かに縁の耳は拾った。
初めて、老人の双眸を凝視し。
何の感慨もなく、視線を外した。
しかし、縁は老人の囁きに応えた。
「まだだ」
「ほう・・・」
「だから、探しに行く」

わからない。
どうしたらいいのか、わからない。
脳裏に浮かぶ彼女がどうすれば微笑うのか、わからない。
・・・その事がよく、解ったから。

「少なくとも『此処』に居てはわからないことが、解った。
 だから探しに・・・行く」
「―――そうか・・・そうか」





微笑ってくれたような気がした。
自分が、立ち上がった時に。
けれどやはり、光の反射が眩しくて表情は見えなかった。
否。
光ではない。
縁自身の、それは膜であり拒絶なのだろう。

破れ、破れ。
自力で殻を破る、雛のように。



「―――じゃあ、ナ」

躊躇いもなく背を向けて。
不敵に、笑った。


むむ、巴ちゃんと和解までいってませんね・・・(^^;
エニーは立ち直ると剣心より図々しいと思います、なんとなく(笑)
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