ぱたぱたと少女は走り抜けた。 後れ毛が揺れて汗が一筋、項(うなじ)を流れた。 どん、と左肘が何かに当たって漸く振り返ると 色落ちしたような紅い着物の青年が 眼(まなこ)を大きくして少女を見ている。 「ごめんなさいっ!」 慌てて頭を下げると襟元からぶらりと藍色の守り袋が零れた。 「いや、ぼうっとしていた拙者も悪いのだから・・・」 彼は少女の目線まで頭を下げて、にっこりと笑った。 そして小さな胸元で揺れる守り袋を見咎めて 不意に眉を少し顰めた。 だが少女はそれに気付く前にもう一度ぺこりと頭を下げると またぱたぱたと駆けてゆく。 彼は袂に片手を仕舞ったまま、後ろ姿を見送っていた。 「剣さん?」 少し低めの、それでいて艶のある声が彼を呼んだ。 からからと細鼻緒の下駄の音が響いて背の高い女性が近づいてくる。 「恵殿・・・」 「どうしたんですか?こんな所で」 「いや、買い物を頼まれて通りがかっただけなのでござる が・・・」 剣心は振り返って先程の少女が走ってゆく姿を見ながら、訊ねる。 「あの娘(こ)は恵殿の診療所に来ていたのでござるか?」 恵は今し方出てきたばかりの診療所の門を見遣って頷いた。 「ああ、あの娘―――お華ちゃんね。 そうですよ、確か母親の薬を受け取りに来てたわ」 相変わらず剣心は考え事をしているような目で少女の消えていった路地を 眺めている。 「・・・あの娘がどうかしたんですか?」 「あの、守り袋が・・・」 独り言のようなぼやけた物言いに恵は微かに引っ掛かるものを覚えた。 自分より頭半分ほど低い剣客の視線を捉えようと 恵はやや腰を屈めて長い髪をさらりと耳にかける。 それは剣心に対して心配した彼女が良く見せる仕草で、彼はそれに気付くと ふっと笑みを浮かべて 頭(かぶり)を振った。 「何でもないでござる・・・ただの見間違いかも知れぬし」 剣心はそう言って左手に提げた味噌の壷を抱え直して 居候先である神谷道場へ帰ろうとする。 「恵殿はまだ往診が?」 「え?・・・ええ」 「大変でござるな。 遅くならないうちに帰るでござるよ」 「ありがとうございます」 去ってゆく細身の剣客を見送りながら、恵は肩で溜息をついた。 京都から帰って以来、彼は随分皆に打ち解けてきたように彼女は思っている。 (それでも) ・・・それでもそれは全てではない。 おそらく、神谷薫に対しても。 (それでも・・・) それでもいずれ、薫は彼の全てを手に入れるだろう。 「バカね・・・」 こん、と軽く己の額を小突いてまた溜息ひとつ。 そうして恵はまた早足で歩き出した。 「お前、なんかあったのか?」 ころころと大きな飴玉を頬張りながら 左之助が歩きながら訊いてきた。 「・・・どうして?」 視線は姿を見失った薫と弥彦を探しながら 剣心はぽつりと聞き返す。 「いや、何となく」 「それだけでござるか?」 「・・・それだけでい」 左之助の右手には先程の夜店で買った焼き烏賊(いか)が握り締められていた。 彼はそれを掲げて巧みに人混みの中を抜けてゆく。 香ばしいたれが滴りそうで、滴らないところに 思わず剣心は笑みを漏らした。 「・・・実は拙者にもよく解らないのでござる」 「はああ!?」 「ついこの間、確かに見覚えのあるものを見かけた。 ―――おそらく、拙者が人斬りだった頃に。 でも確証はない。 印象に残っていた、というわけでもない。 そう、ただ脳に残っていた物が呼び覚まされた、みたいな・・・」 「なんでえ、それ。 俺にはさっぱりでぃ」 がりがりと溶け残っている飴を噛み砕くとすぐに焼き烏賊にかぶりつく。 「お主に食い合わせとかは無いようでござるな・・・」 呆れた剣心を尻目に二口で平らげてしまう。 「その、見覚えのあるものってぇのは何でい?」 「・・・守り袋」 「んなの、持ってるヤツはたくさん居るぞ」 「だから、解らないのでござる。 本当に拙者に関係した人物が持っていたものなのか、それとも 全く拙者とは関わりのないものなのか」 それともうひとつ・・・と、剣心は言葉を継いだ。 「どうして、気になるのか。 これが一番不可解で、な」 「お、嬢ちゃんめっっけ!!」 ぶんぶんと左之助が手を振ると 金魚掬いに興じていた薫と弥彦が気付いた。 「ダメよ、今大事なところなんだからっ!」 大きな赤い花と緑の葉をあしらった浴衣姿の薫が 真剣な顔をしてたらいを覗き込んでいる。 傍で疲れたような弥彦が、振り返って笑った。 「ありゃあ、迷子の自覚無しだな」 左之助が呆れたように言い放つと大きなあくびをひとつ零した。 幾人斬ったか、覚えてはいない。 斬った者全てが記憶に残るわけでもない。 ただ、藍色のあの守り袋はもしかしたらあの娘に縁(ゆかり)の 人物が持っていたのかもしれない―――――――― 自分はあの娘にとって大事な誰かをこの手で斬り捨てているのかもしれない。 ただ、それがよしんば事実としても己に何が出来るというのだろう。 いい加減に抜け出さなくてはならないのは解っている。 多くの矛盾や不条理や汚れを抱えたまま、殆どの人間が 老いてゆく。 それを上手く咀嚼できないのは剣心の長所であり短所でもあった。 『剣は凶器。剣術は殺人術』 それを知り尽くしてなお強靱な精神を失わない比古を剣心は思い浮かべた。 剣心が彼を超えられない理由が、ここにひとつ在った。 しっとりと湿気を帯びた空気が朝から続いていた。 廊下を雑巾掛けしていると、不意に左之助が顔を出した。 「おろ。左之、昼飯には少し早いでござるよ」 「いや。そのよ」 ぼりぼりと左肩辺りを掻きながら左之助は続ける。 「女狐が、お前を呼んでこいとさ」 「・・・恵殿が?」 「ああ、今朝手を看てもらってるときに・・・命令しやがった・・・」 少し不機嫌な顔をしてどっかりと縁に腰を下ろす。 「何か用でござるかな?」 「知らねえよ!ったく」 そう言いながら左之助はそそくさと家の中へ入り込んで ちゃっかり昼餉をいただこうと薫を呼んだ。 「嬢ちゃんには俺から言っとくから早く行きねえ。 じゃないと後がうるせえし」 「ああ、わかったでござる」 とりあえず手短な物を片づけて剣心は小国診療所に向かった。 背中の方で薫の左之助に対する怒鳴り声を聞きながら。 「ごめんなさい、わざわざ」 恵は剣心が来たと知るとすぐ薬箱を持って出てきた。 「ちょっと付いてきてもらいたい所があるんです」 そういってかたかたと先に歩く。 「恵殿?」 何だろう、と考えつつ剣心には朧ながら理由は解っていた。 しばらく土手沿いに歩くと小さな長屋に入る。 通りに近い側の戸を叩くとがらりと横に引かれて 娘が顔を出した。 「あ、恵先生!!」 「お華ちゃん、今日は。 お母さんを看に来たの。しばらく其処のお兄さんと遊んでてくれる?」 華はちらりと剣心を見上げた。 数日前、彼にぶつかったことなど覚えてはいないようだった。 「わかった。どのくらいで済む?」 「四半刻もかからないわ」 こくりと頷いて少女は土間から出た。 剣心は恵の顔を見遣ったが彼女はただ黙って敷居を跨いだ。 「お兄ちゃん、お弟子さん?」 少女はくりっとした瞳を向けて訊ねる。 「いや、その・・・。 まあ、今日はそうでござるかな」 困ったように剣心が笑うと、少女も屈託無く笑い声をあげた。 軒先に咲いている背の高い立葵(タチアオイ)の葉をいじりながら 少女は問いかける。 「お兄ちゃん、恵先生からおかあちゃんのこと聞いてる?」 「詳しくは・・・」 「治るかな?」 「恵殿は大丈夫と言っている。 充分な栄養と休息、それが一番だそうでござる」 「・・・そっか」 ぱんぱんと、尻の土を払って少女は立ち上がった。 赤い頬がますます赤く染まって、愛らしい表情をする。 「――――お華ちゃんのお父さんは?」 剣心はそっと彼女の表情を伺いながら漸く切り出した。 きゅっと首を傾げて華は考える素振りを見せる。 「う・・・ん、あたしがまだ母ちゃんのお腹にいるときに死んだって聞いたから よくわかんないんだ。話もあんまり聞いたことないなあ」 「そう、でござるか」 少女は小さな腕をぐっと伸ばして立葵の薄青の花弁に向けてつま先立ちをした。 「このくらい」 陽に焼けた指先にぴんと力を込めて。 「このくらい、早く大きくなりたい。 そしたらもっとかあちゃんに楽させてあげられる。 そうして・・・・・・」 剣心は眩そうに目を細めた。 「えへへ」 くるりと振り向いて、照れくさそうに少女は笑った。 「後は内緒。 もし叶ったらいいなあって、思ってるんだけどね」 「―――叶うよ」 「え?」 「きっと、叶うでござる。 お華ちゃんには強い光りがあるから」 少女はよく解らないといった顔をした。 けれど嬉しそうに、面映ゆそうに、 頷いた。 恵は振り返って後から歩いてくる剣心を待った。 「・・・余計なことしました?私」 「いいや。 恵殿には変に気を使わせてしまって済まなかったでござる」 普段と変わらない微笑みに恵は少し安心する。 「あの娘の母親からさっき亡くなったご主人のことを訊いたんです・・・剣さん、知りたいですか?」 迷いはなくすぐに応えは返ってきた。 「もう、いいでござるよ」 「そうですか――――― では、私も忘れます。」 ふたりは今度は肩を並べて歩き出した。 「お帰り、剣心」 漸く陽が落ちた頃剣心は道場に帰った。 薫がばたばたと顔を出して、「もうすぐ夕飯だから」と笑って告げた。 「ねえ、剣心」 さり気なく、しかし何処か緊張した声で薫はその後を続ける。 「・・・気になること、あったの?」 剣心はさらりと赤毛を揺らして、ぽんと薫の頭に手を置く。 「そうでござるな。 過去に流されかけてたでござるが・・・おかげで踏ん張れたようでござる」 「ふ〜ん・・・?」 納得しがたい声音であったが薫は剣心の笑顔に免じてそれ以上こだわらなかった。 ただ頭に置かれた手が自分を子供扱いしているような気がして 少しむくれて見せただけだった。
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