暦はすでに秋だというのに日差しは暑い。 「・・・京の夏は蒸すというけれど・・・」 野菜を洗っていた手を止めて巴は空を仰いだ。 太陽はすでに傾き始めている。 庭先ににこぢんまりと咲いている百日紅(さるすべり)の 花弁の薄紅色が滲んでいくようにみえた。 真夏には山帽子(やまぼうし)の白。 秋にはきっと紅葉の鮮やかな衣をまとった山々が 望めるだろう。 ぼんやりとそこまで考えたとき巴はこちらへ向かってくる 人影を認めた。 「・・・おかえりなさいませ」 剣心はその声ににこりと笑って答えた。 「ただいま」 足を洗う用意をと、巴が踵を返そうとしたとき 剣心はためらいがちに呼び止めた。 何事かと思い巴が首を傾げていると、 剣心は懐からなにかを取り出し黙って巴の目の前に 突き出した。 「・・・京扇子・・・」 やや瞳を丸くして巴が剣心を見遣る。 「町で見つけて・・・ 季節も終わりだし、あんまり出来も良くないからと 安くわけてもらったんだ」 照れくさそうに巴の後ろの空間を見ながら説明する。 巴は剣心の手から扇子を受け取るとゆっくりと開いてみた。 目に鮮やかな純白。 上部から下部へ向かって降り積もるような銀の砂。 ・・・しばらく固まったようにじっと見入る巴の様子に焦れて 剣心が声を掛けようとしたとき。 ぱたんと閉じると巴は扇子を剣心に向けて差し出した。 「これは・・・受け取れません」 思わぬ返答に剣心は一瞬あ然とするがすぐに問い返した。 「・・・なにか気に入らないのか?」 巴は大きく首を振るとちいさな声で答える。 「ちがいます・・・ 私には勿体なさすぎます、駄目なんです」 いつもなら諦めのいい剣心だが心外だというように 畳み掛けた。 「遠慮なんかしなくてもいい、 君のために買ってきたんだから受け取ってくれ」 けれど巴は頑なに辞した。 「いいえ、出来ません。 返してきてください。 ・・・ただでさえ、生活も苦しいのに・・・」 そこまでしゃべって巴ははっとした。 剣心の顔がやや怒気を含んだような気がしたからだ。 何もいわずにぐいと扇子を押しつけると 剣心はくるりと背を向けて歩き出す。 「あの・・・」 声を掛けても振り返ろうともしない剣心に巴は 為す術もなくその場に立ちつくした。 やがて陽は落ち、あたりは闇に包まれた。 ロウソクの灯火の下で巴はもう一度扇子を広げる。 しばらくじっと見入るがやがて固く目を閉じた。 痛い。 巴は唇を噛む。 この鮮烈な白さが、 きらきらと輝く銀砂が、 ・・・・・痛い・・・・・ 彼には言えない。 だからこれは受け取れないのだと。 自分にはこの白さも輝きもふさわしくない。 私は醜い。 死んだ人間と生きている人間との間で揺れている。 揺れて、戸惑って、どうしたらいいのかわからなくて 相手を傷つけるばかりだ・・・。 土手に腰掛けて剣心は川面に映る半分欠けた月を 見ていた。 「・・・笑ってほしかったんだがな」 巴の喜ぶ顔が見たかった。 いつかは人斬りに戻るこんな自分に ついてきてくれた巴の為に、 わざわざ寄り道をして選んできたものなのに。 月の光を浴びてきらきらと水が流れて行く。 白い扇子を選んだのは初めて会ったとき 巴の着ていた白の小袖を想い描いたからだ。 雪のように降る銀の砂は・・・。 剣心は川面の月から頭上の月を見た。 巴と出会う前、己の心は荒んでいた。 日々の積み重ねが苦痛の積み重ねだった。 気持ちが澱んで思考もくすみ、 どうして自分が刀を振るっているのかも わからなくなってきていた。 「巴・・・」 愛しい者の名を口にする。 守る者を得たとき自分は変わった。 そう、思っている。 あの、銀の砂のような光が少しずつ自分の心に 降り積もってそれまでため込んでいた澱みを 清浄なものに変えてくれるような気がした。 ・・・剣心はただ愛しい者の喜ぶ顔が見たかったのだ。 かたり、と引き戸が動いたような気がした。 慌てて巴は腰を浮かし、土間の方を見る。 しかしそこには彼女の待つ人の姿は無かった。 風がか細く鳴いている。 ひとりの夜はこんなに心細かっただろうか。 闇はこんなに冷たいものだっただろうか。 ・・・あの人が死んでからもう自分には怖いものはないと 思っていた。 自分はもう何も感じることはできない、と思いこんでいた。 ・・・それが、何を今更淋しいなどと・・・。 左手の親指の爪を噛んで巴は幾度も彼が帰ってくるのではと 視線を戸に移す。 そして幾度もそんな自分に気づいて自分を嘲笑(わら)う。 違う。私はひとりでも平気だ。 私はもうとうにこんな少女じみた恋はしない。 ・・・私は・・・。 剣心はようやく腰を上げた。 帰ろう。 巴が喜ぶ、喜ばないは関係ない。 巴が要らないということにがっかりするのは 俺の都合であって巴が悪いわけではない。 俺が巴に似合うと思ったんだ・・・。 巴は再び扇子を開く。 光る砂。 綺麗なひかり。 あの人が私のために、と求めてくれた、きれいなもの。 きれいなもの。 ・・・私はとても嬉しかったの・・・。 大事なひとに。 自分のこころを。 巴は明かりを持って外へでた。 しばらく待っていると剣心が帰ってきた。 ふたりとも互いの姿を認めると 駆け寄って冷たくなった手を握り合った。
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