まるで遠いざわめきのようだ。 ―――朝方から降り止まぬ雨を、格子越しに見ながら思う。 雨になれば殆どの仕事がはかどらず、自然剣心と巴、 ふたりきりで過ごす時間が多くなる。 この狭くて、古くて、小さな。 それでいておそらく最も居心地の良い・・・場所で。 剣心は乾燥させた薬草を組み合わせ、しわしわとした和紙で丁寧に包む作業をしていた。 かさついた指先で、几帳面に。 なめらかに動く指。 昨夜(ゆうべ)彼女の肌をまさぐった彼の指を、それと重ね合わせ。 巴は思わず頬を赤らめた。 「なに?」 ぼんやりと座り込んでいた巴の様子に気付いたのか、剣心が手を休めて顔を上げる。 「い、いえ・・・」 小さく首を横に振りながら、巴は染まった頬を見られたくなくて、くるりと背を向けた。 剣心はそれ以上深入りせずに、先程彼女がしていたように、ふう、と溜め息を吐きながら 格子の外を見遣る。 「・・・昨日も降ってたな」 「はい・・・」 背を向けて繕い物をしながら、巴は努めて普段通りの声で答えた。 「・・・花の香がする」 「え?」 剣心が紡いだ予想し得なかった言葉に、巴は身体半分ほど振り向いた。 「ちょっと甘い・・・藤袴かな?」 さわさわと降りしきる雨の匂いの間に。 その甘やかな香を探してはみるけれど、巴には解らない。 「わたしには嗅ぎ分けられません・・・」 「あ、俺得意みたいなんだ、そういうの」 剣心は少し照れたように笑った。 笑うと幼顔になるこの少年は、思いの外いろいろな方面で器用な男だった。 「そういえば、『白梅香』の香もご存じでしたね。 初見でお解りになったと以前おっしゃってましたけど」 うん、まあ。 剣心は巴の言葉に曖昧に頷いた。 そういえば、この人はいつ『白梅香』を識ったのだろう。 巴は今更ながらその点に思いを馳せる。 彼女の知る限り、剣心は影の人斬りでありまだ元服したばかりの少年であり。 色恋沙汰には縁遠くて、しかも小萩屋に滞在中は殆ど外へも出なかったはず。 そう、“仕事”以外には――――――― 「どこで・・・この香油をお知りになったの、ですか?」 我知らず、巴の声が低くなった。 剣心はちょっと眉尻を下げて。 すぐさま答えることが出来ない素振りを見せた。 可能性として浮かぶのは。 「廓(くるわ)ですか?」 「・・・そう、だけど?」 咥内が乾いてかさついた。 男達がそうして遊ぶのは当たり前だ。 だけどこの香を識ったのが其処であることに、巴は不快を示す。 どうして不快なのか、と我に問うことまでは頭が回らない。 剣心は完全に手を休めて、巴を凝視した。 唐突に尖った彼女の態度が不可解らしい。 「巴、さん・・・?」 ほう、と巴は溜め息を吐いた。 こんな時に、これ程機微に疎いなんて―――狡い男(ひと)。 胸の奥で燻り始めたそれは、幾ばくか巴の語調をきつくした。 「あなたにいれあげる娘も、居たんでしょうね」 「―――は?」 ぽかんと口を半開きにした剣心の、びっくりした顔を認めて。 巴は思わず己の口を手で塞いだ。 これは八つ当たり・・・いや、嫉妬だ。 自分は彼に何も云わず、ただ傍にいるだけだ。 なのにそれだけの事に対して、わたしは見返りを求めているのか。 巴の、剣心への独占欲と執着は、呆れるほどの量に溢れかえっていたらしい。 「ご、ごめんなさいっ」 巴は慌てて立ち上がろうとしたが、それよりも剣心の動きの方が 早かった。 ぐいっと手首を掴まれて、立つどころか膝を崩して裾がはだける。 「そんな風に」 剣心が、彼女の首筋に唇を寄せた。 「真っ赤になって」 彼の左手は器用に胸元へ滑り込んで、巴のなだらかな肩をへ直接触れた。 「・・・瞳(め)を潤ませて」 唇が耳朶を軽く噛んで、今度は鎖骨へと滑ってゆく。 「妬いてるのって・・・可愛いな」 「!」 巴は固く閉じていた目蓋を見開いて、びくりと肩を震わせた。 鎖骨から両の乳房の谷間へ唇を寄せながら、剣心が上目遣いで彼女を見上げている。 口元は見えないけれど、目元の動きで彼が笑っていることが解った。 「・・・やっ・・・!ぜん・・・ぶ・・・!?」 何が機微に疎いものか。 剣心は巴の心の動きを、お見通しだったのだ。 「ひどい・・・っ」 「だって、さ」 いつの間にか背に回った腕に支えられながら、巴は軋む床に横たわっていた。 剣心はやっと唇を柔肌から離して、ゆっくりと着物や襦袢を剥いでゆく。 「だって君があんな返事ひとつでやきもきしてくれるのが嬉しくて。 君が俺をとても気にしてくれてるみたいで・・・嬉しくて」 酷く優しい双眸で、剣心は巴の顔を見下ろした。 しかし彼の指が休まず彼女の敏感な場所を刺激して。 騙された怒りなぞ何処かへ吸い取られていったようだ。 四肢に力が入らない。 「自惚れても良いか? 君が、俺を欲しがっているって自惚れても・・・」 細長い右手の指を、巴の黒髪に絡ませて、剣心は愛おしそうに何度も梳いた。 そうしてゆっくりと顔を近づけ。 唇と唇が重ね合わせる。 軽く押し付けたそれに、応えるように巴が小さく口を開く。 するりと舌が滑り込んできて。 互いの唾液を掻き混ぜるように深く味わった。 唇と舌が絡み合う湿った音。 さあさあ、と細かな雫を注ぎ続ける雨の音。 そして雨に打たれて濃厚に煙る土と草の匂い。 「・・・!」 その匂いの中に、微かに混じる甘ったるい香に気付いて、巴は顔を動かした。 まさかと思ってもう一度意識を集中させる。 (甘い・・・) 先程剣心が云っていた花の匂いなのか。 巴の様子に気付いた剣心が、さらさらと彼女の頬を撫でた。 「藤袴が芳(かお)る・・・?」 「わかりませんけど、何処かしら甘い匂いがして・・・」 くすりと剣心が笑い。 再度彼女の首筋へ顔を埋めて、耳元で囁いた。 「―――違うよ、これは『君』だ」 「・・・う、そでしょう?」 「『君』だよ」 「あなたったら・・・」 源氏の薫君でもあるまいに、人間の素肌から花の香が立ちのぼるものか。 そう巴は思うのだけれど、消えない甘やかな香りにふと思う。 わたしとあなたが。 ふれて、さわって、だきしめて、もとめる。 その行為に酔っているとしたら。 ふたりの上がり始めた体温(ねつ)が、蒸発してゆく汗が。 熱く吐き出す息が、声が。 あなたへの想いが、 形になって顕れているとしたら――――――― 巴は濡れた瞳を剣心へ向けて、艶やかに微笑んだ。 「わたしには、あなたの匂いのように思えます」 「・・・・・・」 「そう思っていいのでしょう?」 愛してる、なんて云わなくても。 こんな形で相手に心が伝わるなんて、思ってもみなかった。 「・・・うん」 剣心は満足したように、とても優しく笑い返す。 それが胸の奥をくすぐり、そうしてざわざわと熱くさせる。 巴は彼の首に腕を回し、そっと赤毛の頭を抱き寄せた。 (あなたが好き) (君が好き) (嬉しい) (とても、甘い―――) お互いが持つ枷ゆえに。 はっきりと言葉には出来ない想いだけれど。 密着するふたつの身体から立ちのぼる甘い匂いが、 そう告げる。 丁寧に舌を滑らせ、反ってゆく彼女の背を抱き込み。 白い脚が彼を挟み込む。 縺れる度に鼻腔をくすぐる甘やかな匂いに、酔う。 (好き) (欲しい) (君が)(あなたが) (欲しい) 雨が降る。 睦び、交わるふたりを閉じこめるかのように。 このつかの間の時間(とき)と、狭くて小さな空間(ばしょ)が。 彼らへ科された重みを。 暫し切り離してくれるかのように。 ・・・雨音がする。
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