幾つも幾つも まるで緑色の和紙に赤い水滴を落としたように 咲き乱れる。 花、花、花。 「知ってますか?」 育ちの良さそうな男は無表情のまま、隣の青年に訊ねた。 「曼珠沙華の球根には毒があるんです」 少年は走り続けていた。 どこまで走ればいいのか、皆目見当が付かない。 それでも走らなければ追いついてくるのだ。 あの、女が。 父が新しい母親としてその女を少年に会わせたのは、 数年ほど前のことだった。 若く、美しいその女性に少年の胸は高鳴った。 事実彼女は物腰も上品でしかも優しかった。 欠点など無いように思えた。 けれど。 その完璧無比さが次第に不安を呼んだ。 義母のような女性がどうして ハンサムでも金持ちでもない父の元へ 後妻としてやってきたのだろうか。 怒ることも泣くこともない義母(はは)。 絶やさぬ微笑み。 ―――不自然過ぎやしないか? 不安はやがて疑いになった。 少年は義母の行動を逐一観察するようになる。 彼女の一挙一動を見つめる。 そして気付くこともない。 己が無様に妖しい蜘蛛の巣に絡まって、 逃れられなくなっていることを・・・・・・ 少年の父は彼女と再婚後、二年足らずで亡くなった。 数か月後、彼女は新しい男と再婚した。 今度は有数の資産家で、恰幅のいい人物だった。 再婚の話が出た時、少年は彼女と“親子”を続けていた。 人が羨む再婚話は少年の疑いを確信に変えた。 やはり妖女だ、と。 父を踏み台にして、新しい男と金を手に入れた、と。 後から思えば変な話だ。 彼女は彼と彼の父親に不利益をもたらしたわけではない。 むしろ父親は幸せだったろう。 だが彼女と資産家を引き合わせたのは他ならぬ生前の少年の父だった。 その符号が、少年を縛り付けた。 少年は彼女が計画的に事を運んだように思い込んでいた。 証拠は、ない。 だがそれで当たり前なのだ。 ・・・彼女は、妖婦なのだから。 彼女は再婚しても少年と“親子”を続けようとした。 一緒に新しい家で暮らそう、と話した。 少年はすんなり承知した。 彼女を見張らなければならないからだ。 己以外の誰も、彼女の毒牙に気付いてないからだ。 新しい家でも、少年は彼女を見つめた。 朝起きて、鏡台で髪を梳く彼女を。 その、美しい指で薔薇の刺を取る彼女を。 優雅に食事を口にする彼女を。 ―――夜、褥(しとね)で男に抱かれる彼女を。 彼女の豊かな白い乳房。 引き締まった腰。 流れる黒髪。 空を蹴る脚。 喘ぐ声。 気を抜いてはならない。 隙を見せてはならない。 彼女から、目を離してはならない。 そしていつしか彼女に最も近しい男は少年となった。 いつの間にか少年は彼女と抱き合った。 ある日、新しい父に彼女と同衾しているところを目撃され、 そのことが少年に現実を認識させた。 少年は高く、高く叫び声を上げる。 しまった、うかうかと捕まってしまった。 とにかく逃げなければ!! 少年は駆けた。 女は、追いかけてきた。 白い襦袢を乱しながら、少年の後を追ってきた。 混乱しながら振り向いた少年の目に映る彼女の姿は、鬼女だった。 ・・・正体を顕わした。 あれは鬼。 やはり、あいつは化け物だったのだ。 息急き切らしながら少年はどこまでも逃げた。 女もどこまでも追いかけた。 やがて彼女の甘い息の香りを感じるまで二人の距離は縮まった。 もう、これ以上逃げられない。 辺りには曼珠沙華が咲き乱れ、少年の素足はその茎を踏みしだいた為に 白い液にまみれている。 ガンガンと頭痛がした。 薫りのない花に噎せそうになった。 ここで、断ち切らなければ駄目だ。 今、ここで。 いつの間にかお互いに走ることを止めていた。 女の足音がゆっくり近づく。 覚悟を決めて少年は振り返り、そして。 「・・・この花は綺麗ですよね」 男は屈み込んで、曼珠沙華を手折る。 「嫌っている人も多いですが、やはり美しい。 球根に毒がある故に、害獣から田を守るために こうして畦に植えられている。 ・・・素晴らしいとは思いませんか」 青年はぷかりと燻らせて、男を見下ろした。 「先程の話ですが・・・」 「ああ、続きが気になりますか? 女がどうなったか」 男は数本手折った曼珠沙華の一本を青年に手渡し、にっこりと笑った。 「殺してやりましたよ。 あれは、人間(ひと)に仇する化け物だ」 青年は被っていた黒い帽子の鍔を押し上げ、視線を下に落とした。 「ここでしょう?」 「そうですよ」 青年が持っていた花を投げた。 花は低い放物線を描き、ゆっくりと落ちて行く。 ざわり、と花達が震えた。 「彼女の言い分も聞くべきでしょう」 どくん、どくん、と地面が鼓動した。 男の足元の土がぼこりと持ち上がる。 「!」 忘れたことの無かった白い腕が現れた。 ぐっぐっと胸をもたげるようにして美しい肢体が起きあがる。 男は声も出せずにただ見つめていた。 やがてゆらりと男の前に立ち上がった女は黒い土にまみれた髪をばさりと 背中に落としてその虚ろな瞳に男の顔を映した。 《おまえは、いつも見ていた》 《私を》 《私も、いつしかおまえを見ていた》 《恋、だったのだよ》 《ふたりとも、恋に堕ちていた》 真っ白な二本の腕が、男の肩に廻った。 蒼い唇が、男の唇と重なり合う。 あまりの苦さに男は嘔吐を覚えた。 女はにやり、と笑ってそのままゆっくりと背中から花の中に 倒れ込む。 「うげっ、げほっ」 咳き込んだ男が顔を上げると最早そこには赤い花々しか、ない。 ―――揺れる赤い絨毯の中にただ黒いスーツの青年が立っているだけ。 久しぶりに会った男はやつれていた。 青年が勧める酒にも手を出さず、疲れたようにソファーに座っている。 「・・・あれから何もかもが同じ味がするんだ。 あの、苦い、吐き気がする味が。 おかげで殆ど食べ物を受け付けなくなった」 「へえ・・・」 青年は相変わらず黒いスーツを着ていて紫煙を燻らせている。 男は弱々しく笑いながら痩せた指で顔を覆った。 「なのに心の何処かで僕は喜んでいる。 ―――死が近くなればなるほど、彼女を傍に感じるからだ。 死んでしまえば彼女に再び会えることが解っているからだ。 僕は狂ってる、いつからか、最初からか? ・・・いや、そんなことはもうどうでもいい・・・」 男は両手を下ろすとゆっくり青年を見た。 「頼みがある。 僕が死んだら散骨してくれないか。あの、花の場所に」 「毒の球根が眠る場所にか」 「――――――ああ。 僕はあの花に囚われて生きてきた。 還るべき処に、帰るのさ」 男は幸せそうに、微笑った。
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