「最近、見ないな」 珍しく夜に飲みに来た魔実也が隣の女給に問うた。 「何を?」 女給はビールの瓶を持ち上げて、心得たようにグラスに注ぐ。 彼の唐突な物言いは初めて会ったときからのことで、すでに戸惑うことには値しない。 「・・・君の同僚」 彼女にはそれだけで思い当たったようだ。 少し意地悪く目を細めると、左の目元のほくろがやや吊り上がる。 「まったくセンセは名前は知らなくても、女の顔はよく覚えてるんだねえ」 すっとにじり寄って、軽く魔実也にしなだれると彼の手からグラスを取り上げて 一口、喉を潤す。 「確かにここ数日出てこない娘(こ)がいますよ。 真面目だったから何の連絡も寄越さないのを、みんなおかしいって話してたところ」 「へぇ・・・」 「目をつけてたんですか?」 「いや・・・なぜだか気になってね」 グラスを彼女の手から取り返すとテーブルの上に置き、今度は煙草を取り出した。 女給は何気なく彼の吐き出す煙を眺めていたが一瞬その中にさっき話した娘の顔を 見たような気がして、慌てて魔実也を振り返る。 気付いているのかいないのか素知らぬ顔で魔実也はぷかりとまた煙を吐いた。 「びっくりしましたよ、部屋で死んでたんだから」 女給はそれでもいつものように彼のグラスへ酒を注いでいた。 「例の娘(こ)の友達ってのが部屋へ行ってみたらちゃぶ台に俯すようにして息をしてなかったんですってさ」 彼女は上目遣いで彼の顔を窺うようにした。 彼が怪異の類に長けているのは慣れっことしても、それで好奇心まで 無くなるということはない。 彼が気にしたからには、尋常ではない何かが有ったのだろう。 魔実也は視線を不意に彼女と合わせた。 そうして優しいのか、つれないのか判らない微笑みを浮かべる。 彼女も負けじと営業用の微笑みを送った。 「・・・亡くなった娘と懇意にしていた客はいたか?」 「懇意、って感じじゃあなかったけど やたらあの娘(こ)を指名してた男はいましたよ」 思い返すように彼女は白い顎に指をあててそう言った。 それから細い眉を顰めて紅い唇をすぼめた。 「なんかこう、印象の薄い男でしたねえ。 青白い顔をして、口数も少なかったし」 喋りながら彼女は魔実也を見て、艶やかに微笑んだ。 「センセみたく、黒っぽい服装でしたけど全然大違い。 気持ち悪くてあたしは近寄りたくなかったですよ。 それに、時々あたしの方も見てたし。ああ、いやだ」 大げさな身振りにさすがの魔実也も苦笑した。 「・・・姐御でもそんなことがあるんだな」 どこかで嗄れた赤ん坊のような声で猫が鳴いた。 じめじめした暑苦しさ。 躰中の熱気が膜を張って、自分を包んでいるようだ。 誰もがそんな不快な顔をして通り過ぎて行く。 だが薄暗い外灯の下から遠く離れて魔実也はひとり涼しげな顔をして紫煙を燻らせていた。 行き交う人。 猫の声。 通り過ぎる男。 「君」 その時魔実也は声を掛けた。 ゆっくりと立ち止まり、男はのろのろと魔実也の方を向く。 痩けた頬に青白い肌。 この蒸し暑いのに、黒いスーツをきっちりと重そうに着込んでいる。 ぼやけた写真を思わせる表情で男はじっと魔実也を見た。 「君、さっき同じカフェに居たろう」 足下で煙草を揉み消して魔実也はもたれていた壁から身を起こした。 「いや・・・」 はっきりしない、それでいて強い否定の口調で男は答えた。 「居たよ。さっき君の話をしていたろう?」 男の目元の黒ずんだ隈がぴくりと動いた。 黒い帽子を被り直してなおも魔実也は続ける。 「君は他人に自分のことを意識させないようにできるんだ。 ・・・自らの意志で」 にやりと笑う其の紅い唇に男は微かに、だが忌々しそうに視線を投げた。 ―――いつの間にか周りの人影は途絶えてしまっている。 「僕の隣にいた女性の同僚を君は知っているね? 二,三日前に部屋で亡くなっているところを発見されたそうだが」 その時、初めて魔実也は男と目を合わせた。 「君が連れていったのだろう?」 いきなり男が動いた。 風体からは計りがたい素早さで魔実也を押さえ込もうとした。 帽子がふわりと浮く。 一瞬の差で魔実也は避けて男の骨張った細い手首を掴む。 二人とも呼吸を乱すことなく互いを睨んだ。 「君は選ぶことができるんだろう? 彼女はやめておけ。 ・・・彼女は望んでいない」 ―――暫しの対峙のあと 男の躰からふっと力が抜けるのを確認して魔実也は手を離した。 掴まれていた細長い腕を優雅な仕草で庇いながら男は背を向ける。 そうしてそのままするりと闇に溶け込んで行った。 ふう、とため息をつきながら帽子を拾った魔実也の耳に 蹄の音が響いた。 暗い空を仰ぎ見ると一頭立ての黒い馬車が天翔てゆく。 黒雲がゆっくりと渦を巻き、ごう、と風が駆け抜けた。 大きな黒馬を御しているのはあの男だった。 逆巻く髪の間から覗く落ち窪んだ瞳が馬のそれによく似ていた。 彼は魔実也を見下ろすとそのまま高く舞い上がった。 「今強い風が吹いたみたいね」 気が付くと若いカップルが魔実也の横を通り過ぎて行く。 少し乱れた前髪を整えながら、彼は呟いた。 「在って、無きもの。・・・正(まさ)しく・・・」 「昨日ね、変な夢みたんですよ」 安宿で、気怠げに女給は魔実也に酒の入ったグラスを運んだ。 「古ぼけた、真っ黒な馬車がね、空を飛んでるんです。 あたしがびっくりして馬鹿みたいに口を開けて上を見てるとどんどん近づいてきてね、 そして御者の男が笑うんです・・・」 「そんなに気味悪いのか?」 「イヤだ、あたしそんな顔してました? だってセンセ、そいつ例の男だったんですよ。 ほら、死んだ娘の・・・・・・」 彼女ははだけた白い肩を震わせてぎしりと腰掛けた。 「しかもその娘(こ)が馬車に乗ってたんです。 一緒に働いてた時はいつも浮かない顔して淋しそうだったけど、 なんだかうっとりした表情してましたよ・・・あの娘(こ)にもいろいろあったんでしょうねえ」 しばらく考えて、彼女は持ち前の切り替えの良さでそれ以上の思考を止めた。 すらりとした脚を組み替えて女は隣の男に明るく声を掛ける。 「センセは夢占はするんですか? その男がね、最後確かこう言い捨てていったんですよ。 “おまえは運がいい”―――――― ね、どういう意味でしょう?」 見下ろすと魔実也はただ黙って煙草を吸っている。 女給は彼の長い髪を細い指で弄りながら嘆息した。 「・・・あたしは運が悪いと思うんだけど」 そうして愛おしげに彼の項に唇を落とした。
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