夜の川岸に女が立っていた。 纏めていない黒髪はゆったりとなびき、淡い色の着物が闇に映えて 幻想的ですらある。 うっすら開いた其の口許は、まるで熟れた無花果(いちじく)の妖しい色を思わせた。 「何をしているのです?」 黒い上着を肩に引っ掛けてその青年は女に声を掛けた。 女が土手の青年を見遣る。 そしてその端正な白面と、煙草を銜えながら片端をつり上げている唇に 興味が湧いたようだった。 「・・・あなたこそ、なにを?」 「美しい貴婦人がそんな憂鬱な表情で川面を見つめていれば 誰だって足を止めたくなりますよ」 女は初めて微笑した。 傍にいなくても色香が溢れ立つのが判る。 「悩みがあるのなら言ってごらんなさい」 当然のような、ややもすれば高圧的な物言い。 だが女にはそれが好ましくさえ感じた。 全てを話してしまいたいという衝動すら覚える程だった。 暫く逡巡していた女の瞳から完全に戸惑いが消え去ると、 彼女は嫣然とした。 「あなた・・・お名前は?」 「夢幻です。夢幻魔実也」 こおぉ・・・ん・・・ こおぉ・・・ん・・・ 鹿威し(ししおどし)の音が甲高く繰り返される。 この辺りは賑やかな通りも近いはずなのにしん、と帷(とばり)が 降りたような静寂さに包まれていた。 あまりに広過ぎる座敷の片隅で、魔実也は臆することもなく、くつろぐ。 我が家まで彼を案内した女は、茶菓子の用意をするために席を外しているようだ。 ・・・ここにくる道すがら、女はまるで他人事のように自分の事情を 魔実也に語っていた。 「わたくしは最近、そこそこ財産のある男性と結婚いたしました。 彼はあなたのように美男子ではありませんけれど わたくしにはとても優しくて、いつも甘やかせてくれて、 ―――ほんとうにいい男性(ひと)なのですが 実は彼には前の亡くなった奥さんが残した子供がありましてね。 まだ十かそこらの女の子なのですが、わたくしに父親を取られたと思ってるのでしょうか、 主人が居ないときにはそれこそ氷のような眼でわたくしをみるのです。 それがとてもわたくしには苦しくて、とても息詰まりで・・・・・・ だから先程もああしてしょうことなしに時間を潰していたのです。 あの娘(こ)と同じ屋敷に居るよりは、随分心が安まりますので・・・・・・」 蕩々と舞台劇の女優のような台詞を女は吐いた。 そこをまた魔実也は興じてはいたのだが。 かさり。 障子の向こうで衣擦れの音がした。 小さな影が魔実也の様子を窺っているようだ。 「ははあ・・・」 これが例の少女かと、いきなり魔実也は障子をすらりと引いた。 縁側で、びっくりしたように少女が日本人形を抱きしめている。 小花を散らした愛らしい着物と両肩に垂らしたおさげがよく似合っている。 「何か僕に用かな?」 人がいいのか、悪いのか判断のつかない笑顔で魔実也は訊ねた。 胸の人形を握りしめ、おずおずと少女は口を開く。 「あなたは、あの女の新しい男なの?」 可愛らしい顔をしているのに大人びた台詞を吐く少女に魔実也は苦笑した。 「いや、まだそういう意味の男にはなっていないが」 すると安心したように少女は厳しい表情をゆるめた。 廊下の奥をちらりと窺ってすっと敷居を跨ぎ、魔実也の前に立つ。 「あの女は、わたしとても怖いの。 お父様はすごく優しい人なのだけれど あの女はそんなお父様の優しさにつけ込んで、うちの財産を使って 好き勝手なことをしているのよ。 なのにお父様はなかなかその事にお気づきにならないの。 いつかお父様が酷い仕打ちを受けるんじゃないかとわたし心配で心配で・・・」 俯いて、そして顔を上げると魔実也の袖を掴む。 「あなたもあの女といれば、きっと良くないことが起こるわ。 あまり係わらない方が・・・」 そこに足音が近づいて来た。 少女は慌てて別の部屋に走る。 「・・・おや、誰かいましたか?」 「さあ」 うそぶく魔実也を尻目に 女は座卓の上に盆を置き、奥の部屋を気にした。 「あの子ね・・・」 ため息をつくと ゆっくりと膝を折り、魔実也の隣りに座る。 「いつもそう、わたくしはあの子にとっては鬼の継母なのですわ。 ・・・主人は気にしないように言ってはくれるのですが。 けれどわたくし、酷く傷ついてしまいますの・・・」 美しい黒髪がさらりと女の顔を隠す。 俯く女の肩が、震えた。 魔実也は視線を少女の隠れた部屋へ趨らせた。 薄い壁の向こうで 義母の言葉に唇を強く噛み締め、人形に頬を寄せる少女の様子が 手に取るように感じられた。 ぼんやりと曇った月が薄明かりを放っていた。 女の屋敷を出たところで魔実也はつと足を止める。 「やっぱりいらっしゃったのですね。ご主人」 前を見たまま、背中越しに声を掛ける。 後の男はじっと立ったままのようだ。 ぽたぽたと幾つもの滴が落ちる音がする。 魔実也は煙草に火を点し、ゆっくりと振り向いた。 切れ長の眼がすっと細められたが、そこには何の感情も見て取れない。 ・・・立っていたのは全身がぐっしょりと濡れそぼり、両手を脇にだらりと下げた中年の男だった。 躰中に紫斑を浮かべ、膨れ上がった皮膚からは動いてもいないのに、ぶよぶよと 気味の悪い音が聞こえてくるようだ。 「・・・容姿が美し過ぎるばかりに義理の子に理解されず疎まれる女性。 継母の冷たい仕打ちに耐えて真実に気付かない父を心配する娘。 そして若く美しい妻と愛しい娘との確執の板挟みになり、 とうとう自殺までしてしまった男―――」 ふっと吐き出した煙を魔実也は目で追った。 男は相変わらずぼとぼとと滴を落とす。 「三人が三人とも悲劇の主人公を演じている。 ・・・この素晴らしい舞台の監督は一体誰ですか?」 男は気味悪くめくれ上がった唇をゆっくりと動かした。 ぐじゅぐじゅと頬の肉が潰れてゆく。 ―――もう一度深く魔実也が煙を吐き出すと男の姿は見えなくなっていた。 数日後、同じ川岸を魔実也は通りがかった。 夕陽を背にして赤いワンピースの少女が丸い石を積んでいる。 その左手に、見覚えのある日本人形が抱かれていた。 「何をしてるんだい?」 声をかけると短く切り揃えた髪を揺らして少女は振り返る。 明らかにこの間の少女とは別人だった。 だがその手の人形は・・・・・・ 「新しいお母さんに虐められたの」 目を赤くして少女はか細い声で答えた。 「へえ・・・。 でもお父さんは君にはとても優しいんだろう?」 こくんと少女は頷く。 魔実也は少し腰を屈めて、少女に囁いた。 「その人形、見せてもらえるかな」 手渡された人形の黒い瞳をじっと魔実也は見据える。 おかっぱ頭の、色白の少女人形。 赤い紅の唇にふっくらとした頬――― だが微かに息苦しくなるような緊張感が漂う。 「どうやらこの前の家族は父親が舞台を降りて芝居が終わったようだな」 魔実也の白い右手がすっと人形の胸に置かれた。 ワンピースの少女はぼんやりとそれを眺めていたがやがて魔実也の掌が光ったような 気がして、思わず目をこする。 「はい」 にっこりと取って付けたように微笑むと魔実也は人形を少女に返した。 「早くお帰り。・・・お義母さんが心配している」 少女は不思議そうに人形と魔実也の右手を見比べていたがやがて 照れたように笑うと踵を返した。 小さな足音が土手を駆け上がってゆく。 それを見届けると魔実也は手の中の光りに話しかけた。 「おまえがどんな人生を送って、どんな想いを残したかは知らないが・・・」 ゆっくりと五本の指を閉じてゆく。光りはどんどん小さくなってゆく。 「もう、お還り」 魔実也はぐっと握り拳に力を込めた。 光りはぱつん、と小さくはじけてそして見えなくなった。
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