「・・・行ってください」 振り返ることもしない背で。 有無を云わさない圧力。 木戸とて神道無念流を会得した者だ、気配で敵が十数人であることを 察していた。 木戸の左右で腰の大刀に手を掛ける男二人は、 剣心ひとりにこの場を任せていいものか、と迷っている。 「早く!」 圧しの一言だった。 木戸は無言で頷き、踵を返す。 脇のふたりもそれに倣うように身を翻した。 きいぃん 刀身が、啼く。 「寒くなりましたね」 艶やかな笑みを浮かべて、彼女はまだ明るい空を仰ぎ見た。 巴は小さく頷きながら同じように顔を上げる。 刻々と近づく真冬の、きん、と張り詰めた大気層が。 より雲を白く、空を青く、見せつける。 「・・・京へ戻られたばかりでお疲れでしょう」 巴は家屋へと彼女を招き、熱い茶を淹れた。 狭いながら、きちんと整頓された家の真ん中で。 腰を下ろし、ふたりの女性は茶を啜る。 「京はますます緊迫していて、おもしろいわねえ」 巴は彼女のその言に目を瞠り、やがてその小さな唇からくすりと笑いを零した。 「おもしろい、とは幾松さんらしいですね」 彼女―――幾松は優雅に袂で口元を覆い、ころころと喉を鳴らす。 「あなたにもわかるはずですよ。 お互い命懸けで付き合わないといけない男に恋した。 傍目から見るとしんどいし、覚悟も要ります。 ですけどね・・・病みつきになりますよ、あの男達は」 巴は小首を傾げ、自分より三つほど歳重ねた幾松をじっと見た。 巴の黒目がちな瞳が、ゆらゆら揺れて。 綺麗に幾松を映している。 幾松はそこに、彼女の内面の美しさを見て取った。 「・・・そういわれれば、そうかも知れません。 そんな風に思ったことはなかったのですが」 幾ばくか思考した後、巴はゆっくりと、慎重に言葉を紡ぐ。 今しも。 京(みやこ)では巴の夫が、幾松の恋人の為に剣を振るっているかも知れない。 そんな想像が、巴の意識を支配した。 ひっ迫した情勢は志士側にも幕府方にもこれまでにないほどの 緊張を強いている。 その中で、先頭に立って斬り結ぶ。 特に剣心の役目は危険で矢面に立ちやすい。 闇乃武との戦いの、比ではないかも知れない。 聞き慣れた鍔鳴りの音が鼓膜を震わせる、そんな錯覚すらして、 巴は身を竦めてしまうほどだ。 だが、しかし。 そんな不安を、見せたくはなかった。 特に目の前の女性には。 かた。 幾松は茶托に湯呑みを置き。 す、と姿勢を正した。 長くたおやかな指を膝に揃えて。 深々と頭を下げる。 驚いた巴が慌てて、幾松の傾いだ身体を起こそうと腕を伸ばすと、 それを制するように幾松の凛、とした声が響く。 「・・・緋村さんには、木戸の為に死んでもらいます」 幾松の肩を押さえようとして中腰のまま。 ぴたりと巴の動きが止まった。 「その覚悟、ありますな?」 やや低いその声音は、厳しく、容赦なく。 幾松は頭を下げたまま、続ける。 「木戸は、新時代の為に死ぬ。 緋村さんはその木戸の為に死ぬ。 これは・・・一番確率が高い『結果』のひとつです」 急に力が抜けて、とさ、と巴がその場に座り込んだ。 幾松は頭を下げたのと同じ間合いで、静かに面(おもて)を上げる。 普段の華やかさを、欠片も残さず。 突き刺さるような視線で、巴を見る幾松の表情は。 増女(ぞうおんな)の能面を思わせるものがあった。 ざわりと背筋を何かが這い昇り、自分が震え出すかと巴は感じた。 咄嗟に己の体重を支えている左腕に力を込め。 きゅっと唇を噛み、巴は負けじとその幾松の視線を受け止める。 双眸を瞬かせず、すっと居住まいを正し。 「あの人は、やり遂げて戻ってきます」 無意識に言い放ったそれを。 幾松は我が意を得たり、と微笑んだ。 「女は恐い」 桂・・・いや、木戸は再会した時にそう言って笑った。 すでに剣心は遊撃剣士として、剣を振るっていたが 直接木戸を守る為に随行するのは初めてだった。 われ知らず力が入りすぎていたのだろう、木戸は「ほんとに女は恐いぞ」と 冗談めかして言いながら、緊張をほぐすように剣心の肩を叩く。 「だからな、俺は死ねん」 笑い声の隙間を縫うように、 耳元で囁かれた低いその声に、はっとして剣心は木戸を見遣った。 「・・・巴さんが居る、今のお前なら解るだろう。 藩の為に奔走し、この国の為に這いずり回る。 何度も駄目かと思った時、必ず幾松の顔が浮かんでくる。 俺の行き着く先はみんなあいつだ。 本当に、恐い恐い」 ははは、と笑い木戸は肩を揺する。 薩摩の西郷と協定を結び、長州を掌握する、その背中が。 以前よりも大きくて・・・広い。 その背を見つめながら、剣心はひとつの答を見つけたような気がした。 死ぬ時は、この人の為に死ぬだろう。 けれど。 (巴) ひとりぼっちで、小さな村で自分を待つ。 (巴) けれど、君が居れば。 (生きる) 君の為に。 「あの男達は、わたし達の為には死んでくれません」 再び茶を啜りながら、幾松がからからと笑った。 呆気に取られて巴はその様を眺めるだけだ。 「ですが、わたし達の為に『生きる』」 はっと巴は胸を押さえた。 とくとく、規則正しい鼓動が、遠く離れた剣心のそれと 重なるような気がした。 この温かな生命(いのち)が、彼にも届いているのだろうか? 彼も感じて、くれているのだろうか? ―――漸く、巴は彼女本来の極上の微笑みを見せた。 「・・・幾松さんには敵いません・・・」 幾松はふるふると首を振り、笑い返す。 「皆、そうです。 大切な者を持つ者は、みんな」 それでも願い空しく散って行く武士も多い。 諦める武士も多い。 それでも。それでも。 「わたしが居るから。 あなたが居るから。 それが、あの男達の寄す処(よすが)です」 八人目の男の足の腱を斬る。 翻る刀の煌めきが、同時に二本の腕を斬った。 返り血が、剣心の白い顔を彩り。 その刃を彩り。 しゅ、と光の線が。 奔る、奔る、奔る。 標的を追い、交わし、無我の状態でのその剣捌きは まるで引き込まれそうなほどに美しく壮絶だ。 しかし一体幾人が気付くだろう。 その卓越した剣技の凄まじさが。 寄す処へ還る為の、想いの強さであることを。
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