忘れるはずもない、大柄の男が。 これ見よがしに紅い縁の、白い外套(マント)をはためかしていた。 「・・・・・・師匠・・・?」 こんな派手な出で立ちは、彼以外には有り得はしないのだけれど。 心の底でこの場所に『彼』が居ることを、認めたくなかったらしくて、 裏返ったような声が出た。 さう、と一陣の風が。 彼の重い外套の端を小さく揺らす。 と、長い黒髪がゆっくりと靡き。 「よぉ、バカ弟子」 不敵に、笑った。 「どうしたんですか、こんな村外れで?」 「なに、お前の嫁の顔を拝もうかと思ってな」 「・・・巴に?・・・」 小高い丘に背の高い男と、背の低い男が並んで立つ。 共に腰に大刀を携えて。 のどかな農村に似つかわしくないその風景は。 夜の訪れが間近なおかげもあって、誰の目にも触れなかった。 「そうそう、その巴さんだ。 お前みたいなバカ弟子に嫁いでくれるなんて、師匠の俺としては 感謝してもしきれないくらいだからな。 近いうちに是非お礼を、とは考えていたんだ」 「はいはい、そうですか。 それならこんな処で突っ立ってないで、 うちに来ればいいじゃないですか」 比古はむっとした顔で返答する剣心の顔を見遣り。 にい、っと唇の端を上げた。 「お前、今し方『仕事』から帰ってきたんだろう?」 「そうですけど、それが何か・・・?」 「―――今日は会うのは止めた。 また日を改める」 ばさっと、外套が翻り。 比古は剣心に背を向ける。 「ちょ、ちょっと! 何なんですか、唐突に!?」 「おっと、そうだ」 予測のない比古の行動に、やや慌てふためく剣心が彼に近寄ろうとした瞬間。 ずいっと比古は剣心の目の前に壺を差し出した。 「・・・祝い酒だ」 「へ?」 「新津覚之進の最高傑作の器に入った、最高の酒『万寿』だ」 たぷん、と壺からまろやかな音がする。 きつい麹の香りは、確かに幼少の頃から嗅ぎ慣れた比古愛飲の酒の の匂いだった。 ぱちぱちと幾度か瞬きを繰り返して。 剣心は目の前の壺と比古の顔を交互に見つめ、困ったような、それでいて 安心したような表情(かお)をした。 「師匠・・・」 剣心は、おそらく誰よりも比古に対して最も子供っぽい顔をする。 育ての親である比古の、それは特権のようなものだった。 しかし現在(いま)の剣心が纏う、この穏やかで深く、それでいて 鋼のように手応えのある物腰は。 比古がそれまで与(あずか)り知らぬ、新たな剣心の側面だ。 ―――ただ、ひとりの女性だけが。 それを導き、それを担う。 「祝いだ」 再びたぷん、と壺を押し付け。 比古は大股で歩み去る。 深い藍色の壺を胸に抱えて。 剣心はその背に向けて、頭(こうべ)を垂れた。 「綺麗な色・・・」 師匠に押し付けられたその壺を見た時、巴はそう感心したように呟いた。 すっと細い指が、壺の底近くに奔る白い流線を辿る。 「ほら、この白の深さ、流れの勢い・・・、素晴らしいですね」 「うーん、俺はよく解らないけれど・・・」 足を洗い、口を濯いで。 剣心はくつろいだ顔で胡座をかいた。 「今じゃ一廉の陶芸家だから、やっぱり巧い、んだろうな」 「綺麗ですよ、とても」 「・・・似合わないよなあ、何せ筋骨隆々だし」 最後のぼそりと漏らした科白は巴には届かなかったようだ。 巴は食前酒に、と贈り物の酒を杯(さかずき)に注ごうとして、 途端、匂い立つ芳醇な香りにびっくりしたように、眉を上げる。 「随分きつそうですけど、いつもこれを?」 「ああ、水代わりみたいに。 あの人、化け物だから」 むすっとした表情で、鬱陶しげに言い捨てる。 先程からのそんな剣心の様子が可愛くて、巴は思わず頬を弛めた。 まるで照れくささを隠そうとしているように思えるからだ。 「―――わたし、お会いしたかったのに」 あなたに、そんな百面相をさせる『比古清十郎』という人に。 「機会はあるよ。 きっと今日は気を利かせてくれたんだ」 「え?」 ぐい、と杯を持ったままの、巴の手首を握り。 そのまま剣心はそれを自分の唇に引き寄せて、酒を呑む。 そうして行儀の悪さに呆れた巴の肩を抱き寄せ。 いきなりその紅い唇を塞いだ。 「・・・!?」 まだ嚥下しないまま含んでいた酒を、そのまま巴の口内に注ぎ込む。 こくっと白い喉が動いて。 それを確認してから剣心はゆっくり唇を離し、掠めるように舌先で 巴の口の端に零れ落ちる酒を舐め取った。 「・・・・・・」 唐突な展開に目を瞠った彼女の、固まった様子に思わず剣心は肩を震わせて笑う。 「な、何をいきなり・・・」 「このくらいしないと、酒をくれた師匠に悪いだろ?」 巴はなおも言い募ろうとしたが、悪戯が成功してくすくす笑う彼を見て諦めた。 彼の笑顔は、とても愛しくて―――敵わない。 「・・・酒が美味いなんて、知らなかった」 「はい・・・?」 「これでもかなり呑むんだけど。 美味いと思ったのは、君に出逢ってからだ」 「そう、ですか」 巴が居住まいを正して、剣心に酒を注ぐ。 元来酒に弱い彼女は、先程の口移しの酒だけですでに目元を桜色に 染めていた。 「君と夫婦(めおと)になった、って師匠に初めて告げた時に、その酒の話をしたことがある」 顔色をひとつも変えないまま、剣心の杯が重なる。 「桜(はな)に月に星に雪。 毎年毎年美しい季節が巡っても、精神(こころ)が荒めば視覚や味覚も荒むんだ。 それらを愛でることなんか出来やしないんだ。 ―――師匠の、あの時の言葉が・・・やっとここに落ちた」 す、と剣心は右のてのひらを己の心臓の上に置く。 「そう、伝えたことを・・・覚えていてくれたんだな」 打って変わって面映ゆげに微笑む剣心が、ふいに巴の方を向いた。 とくん、と胸が跳ねて思わず銚子を落としそうになる。 いきなり、そんなとっておきのような表情をして。 鼓動がどんどん速くなってゆくのは。 けして先程呑まされた酒だけのせいじゃ、ない―――――― 「あなた・・・」 掠れた声で、巴が囁く。 そうして、欲情したように聞こえはしなかったかと狼狽えた。 彼女の呼びかけに「なんだ?」と返そうとして剣心は、彼女の頬まで桜色になっていることに気付く。 「巴はほんと弱いな」 「だって、それはきつすぎます・・・」 「赤い顔して、可愛いな」 またくすくすと笑いを噛み殺す剣心に、思わず頬を膨らませた。 「あなたこそ、酔ってるみたいですよ」 「―――酔ってるよ、君に」 ぼん、と音がするかと思った。 巴は耳まで真っ赤にして、火を噴くなんてこんな感じかもしれないと、 両のてのひらで熱い頬を押さえた。 剣心はもう一口酒を含むと、巴の腰に腕を回し。 再度酒を口移す。 「・・・ん、・・・も、う・・・いつまでもふざけて・・・」 「黙って」 そのまま剣心は貪るように、深く深く唇を重ね。 酒の残り香が、ぴりぴりと舌を刺激した。 「久しぶりなんだから、酔わせて・・・君に」 「あな、た―――」 春に夜桜 夏には星 秋に満月 冬には雪 ―――ふたり、共に在ればこそ。
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