「戌の日?」 妙が少し高い声で聞き返した。 「うん、五か月くらいになるとね、戌の日に こうして腹帯まいて、安産を祈るんだって」 妙はああ、聞いたことあるわあ、と頷く。 「これから暑うなるのにお腹にそんなサラシ巻いて大変やね」 「あはは、サラシは巻き慣れてるし。 それにこの方がお腹が安定して楽だって産婆さんがいってたわ」 「そやね。まだそないに目立たへんけど大きくなるにつれて重くなるやろしね」 妙は少し丸みを帯び始めた薫のお腹にそっと手を当てた。 「薫ちゃん、家族が増えるんは嬉しいね。大切にな」 細い目を更に細めて笑いかける妙に薫は顔を赤らめて頷き返した。 神谷道場では相変わらず弥彦が素振りを繰り返している。 薫が妊娠して大事をとっているので出稽古は専ら彼の仕事になってしまい、 自分の鍛錬がめっきり出来なくなってしまったのが悩みの種だ。 剣心は剣心で自分が父親になることが余程嬉しいのか、弥彦が稽古を頼んでも 身が入らず、上の空だ。 「あ〜あ、これで左之助でも居りゃ、憂さ晴らしくらいの殴り合いは出来るのに・・・」 ブツブツ言いながら竹刀を振り下ろす。 そこへ剣心が洗い桶をぶら下げて顔を出した。 「弥彦、薫殿は戻ったでござるか?」 「いや、まだだろ」 「・・・そうでござるか」 背中を向ける剣心に、手の動きを止めて弥彦が問うた。 「心配性だなあ。別に身体の具合が悪いわけでも無し、そんなに 気にするこたぁねえんじゃないか?」 呆れたような弥彦の質問に剣心はやや曖昧な表情をした。 「?」 それがどこか引っかかって、弥彦は手拭いで汗を拭きながら剣心の側へ寄った。 剣心の方といえば何故弥彦が不可解な表情なのかわからずに、間抜けな顔をしている。 「どうかしたのか?」 弥彦は肩に竹刀を置いて小首を傾げる仕草をする。 ここのところめっきり体つきががっしりしてきた弥彦だが そういうときの雰囲気はまだ幼さが残っていた。 「何故でござる?」 剣心もやはり小首を傾げて問い返す。 これは本人自身の自覚が無いのだということを悟ると弥彦は 軽く首を振った。 「・・・何でもないよ、気のせいみたいだ。 それよりもメシ、早くしてくれよな」 くるんと背を向けて弥彦は再び素振りを始める。 剣心は頭を掻きながら小さく笑って言う。 「では、そうするでござる」 どんどん成長してゆく彼に頼もしさと感嘆と、一抹の寂しさを覚えながら。 ぱたぱたと去ってゆく剣心の足音を聞きながら弥彦は 鼻腔を膨らませてふーっと空気を吐き出した。 (・・・不安なのかな、剣心) ずっと剣心(かれ)は独りだった。 ここに来て家族が出来て、そしてあと半年もすれば血の繋がった家族が また増える。 (独りに慣れすぎて、返って家族というやつに戸惑ってるのかもしれないなあ) 弥彦は自分が初めて神谷道場にやってきた日のことを回想した。 薫と剣心に優しく迎えられて、ふっと抱いた複雑な感情。 ・・・・・・自分もずっと独りだったから。 (剣心と俺を一緒くたに考えるのはちょっとキツイかな) 日頃考えることに慣れていない彼はそれ以上深入りする事をやめて 再び素振りに没頭し出した。 「ただいまあ」 剣心が夕餉の支度をしていると薫が帰宅した。 「ごめんねー、剣心。 妙さんとこに寄り道しちゃったー」 明るい声に誘われるように剣心が顔を出す。 「お帰りでござる」 やや物憂げな表情。 薫は微かなそれを見て取ってぐいっと剣心の腕を掴んだ。 「薫殿?」 「前から時々気になってたんだけど」 「は?」 薫は剣心を座らせてその手を自分のお腹の上に置いた。 「なにか感じる?」 訳の解らない行動に面食らいながら言われるままに右の手のひらに 神経を集中させる。 「・・・お腹空いてるでござるか?」 「・・・・・・」 「なんだか少し振動してるような・・・」 「赤ちゃんが動いてるのよ」 びっくりしたように剣心が手を引っ込めた。 薫は今度は自分の手をその腹に当てる。 「まだよくわかんないけどね、これからどんどん大きくなると外見だけでも動いてるのが解るようになるんですって」 「・・・へぇ・・・」 呆気にとられつつ、それでも剣心は相づちを打った。 「こう、波打つみたいにね、ぐねぐね〜と・・・」 “波打つ大きなお腹”を想像してみて剣心の顔がますます呆然とする。 「わたしね、お腹が大きくなったら仰向けで寝られないし、 腰を曲げることも難しいし、 足とかむくんじゃって水分摂る量も考えないといけないの。 それからお腹が重くて腰も痛くなるし、 時々は張っちゃったりしてお腹が痛くなるかもしれない」 蕩々と並び立てる薫に剣心はどうしたらいいのかわからない。 むろんそれは薫が産婆から仕込んできた情報だった。 一気にまくし立てた後、 いきなり薫は剣心の顔を両手で挟んでぐいっと自分の方へ向ける。 「わたしがこれだけ苦労するのよ、あなたも家族が増えることを少しずつ受け入れなくっちゃ・・・」 ふたりの瞳と、瞳が、交わった。 初めて剣心は己が迷っていたことに気づいた。 薫は多分随分前から解っていたのだろう。もしかしたら弥彦も解っているのかもしれない。 「そんなにね、すぐに変われとは言わない。 あなたはずっと何も持たずに生きてきたし、・・・失うことの恐ろしさも充分知ってるし」 薫の瞳は怒ってはいない。むしろ、慈愛で満ちあふれている。 「わたしも、弥彦も、・・・あなたも出逢った時は独りだった。 わたしは、でも今はこうして居られることを感謝してる」 「薫・・・」 着物の袂から薫の陽に焼けていない白い肘が覗いた。 そのまま剣心の首に両腕をまわして。瞼を閉じる。 「家族で居ても、淋しいときはあると思う。 だけどそれは独りの淋しさとは違うし、―――淋しさを埋めるために 誰かを求めることは―――けっして悪いことじゃないよね」 はにかむように笑って、そして薫はまわした腕をほどこうとした。 だがしかし今度は剣心が離れかけた手首を掴んで薫を抱きしめる。 「剣心・・・?」 「―――そうか、拙者は知らない内にビクついていたのでござるな」 しかもそれに気づこうともしなかった己が滑稽で笑いが漏れる。 震える剣心の長い髪が薫の頬をくすぐって薫もまた軽く笑った。 つられて剣心もますます笑い声を立てる。 「どうも拙者は不器用で困る。 ・・・これからも迷惑をかけるでござるな」 後日。 「なあ」 「ん?」 「この頃薫の料理マシになってないか?」 「そういえばそうかもでござるな」 「母親の自覚ってもんかな」 「・・・それよりもややがお腹にいるときは味覚が変わるっていうからそれでござらんか」 「・・・じゃ子供が産まれたら元に戻るのか?」 「たぶん」 弥彦は洗い物の手を止めた。 「剣心、赤ん坊の食事はおまえがつくれよっ」 明るい笑い声が土間に響いた。
| |