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手慣れた手付きで、白いサラシを巻いてゆく。 大きく張り出している腹から、自分の膝は疎か、足元すら全く見えなかった。 「ふう」 ようやく身支度を整えて、髪をきゅっと纏めた。 「何をしてるんだ?」 聞き慣れた声が、簡素な衝立の向こうで訊ねてくる。 「ちょっと着替えを」 赤い髪がさらりと揺れて、剣心が細い顔を覗かせた。 「・・・寝てろって言ったろ?」 「だけど、病気ではないですし」 「昨夜引きつる感じがするって言ったじゃないか。 日も近いんだから無理をしなくても・・・」 「大丈夫ですよ」 巴はふわりと微笑んだ。 以前の彼女を知る者ならば、驚くほどの柔らかな表情。 それは腹の中の子が大きくなるにつれてどんどん、 とろけるように優しく温かくなっていった。 それに丸め込められて、思わず剣心は頷きそうになったが、 しかしきゅっと口元を引き結んで首を横に振った。 「畑のことは心配しなくていいから。 家事も俺がやるし、頼むから横になっててくれ」 額に軽い皺を寄せて、顰め面をする自分の連れ合いが。 どこか浮き立っているような感じがして、巴が再び微笑った。 「何だよ・・・?」 「いえ」 ちょっと可愛い、と思ったことは内緒だ。 彼は年齢以上の辛苦は味わってきたし、所作も物言いも同年代の 者と格段の差で落ち着いている。 だが、少年と呼んで差し支えない年齢なのも本当だ。 隠し押し込める彼の本音が、ちらりちらりと見え隠れする度に。 愛しく、切なく、ほんの少し―――愉快だった。 巴はゆっくりと剣心の元へ寄り、膝を折った。 「ご心配されるのはわかりますが、あんまり甘やかしても駄目なんですよ? 適度に動いていた方が腹のややにも良いと産婆さまも仰ってたじゃありませんか」 彼女は普通の顔をしてけろりとそう言う。 けれど剣心からしてみれば細腰で、肩も撫でらかで、足首も折れそうな彼女の。 はち切れそうな腹部を抱えてゆるゆると歩く姿を見て、とても平気などとは思えない。 重いはずだ。 仰向けに寝ていられない、程には。 見守るこっちの身にもなって欲しい、と剣心は小さく愚痴った。 腹の中で動いた、と巴が痛がれば心なしか自分も痛い気がするし。 腰を曲げられなくて不便そうなのを見れば、 どうにも出来ないのにどうにかしてやりたくなるし。 ―――疲れるのだ、自分も。 こんな類の緊張感は味わったことすらなくて、戸惑うばかりで。 ・・・迷うということがこれ程疲労することとは。 「ぽん、と卵みたいに早く生まれればいいのに、な」 陽にあまり焼けにくい、白い腕を伸ばして。 剣心は軽く巴の腹を撫でた。 巴は一回り目を大きく見開き、それは随分お手軽ですね、と呆れる。 「変かな?」 「鶏みたいなら楽かと、それはわたしもそう思うんですけど」 「けど?」 こんな風に、まごついてる貴男を見てるのはなんだか楽しいから。 やっぱりお手軽に生まれてくるのは惜しい感じがします。 ・・・なんて言えるはずがない代わりに、巴はくくっと喉で笑って。 何が可笑しいんだ?と頬を小さく膨らませている剣心の顔を見て、 ―――また笑った。 彼女が産気づいたのは、まだ暗い夜朝だった。 隣家の年配の女性に暫し巴を任せ、剣心は産婆を呼びに走った。 歳を喰って、駆けることの出来ない産婆を強引に背負って、我が家へ急ぐ。 家に着くと、巴は脂汗を浮かべながら時折きつく唇を噛んでいた。 「おやおや、お早い到着ですこと」 隣家の女は産婆を背負って登場した剣心を見て、からからと笑った。 産婆は剣心の背から降り立つといきなりしゃんとした表情をして、 すたりすたりと巴の傍に歩み寄り、その裾を開く。 「・・・ふん、まだだね」 「大丈夫なのか!?」 「充分支度する時間はあるさね」 剣心の背で、先程まであくびを浮かべていた老婆は、皺でたるんだ目蓋を 押し上げ、まだ黒目がちな瞳を爛々と輝かせ始めた。 「さあさ、手伝っとくれ!」 それほど長い時間はかからなかったと思う。 産褥を整え、お湯を沸かし、ありったけの清潔な布を揃え。 それもあらかじめ巴が用意して置いてくれたので、さほど困難ではなかった。 「・・・・・・・・・」 激しい呼吸と、折々混じる呻き。 時にはっと背筋に緊張を奔らすけれど、赤子が下りるにはまだ刻(とき)が かかりそうだった。 襖を隔てた隣の部屋で、剣心はきちんと座して動かない。 隣家の女が、ゆったりと膝を崩して、それを眺めた。 「心配だよねえ?」 独り言のようだが、それは確実に剣心に向けられた言葉だった。 伏せていた目をゆっくりと上げて、剣心は女の方を見た。 そして、この小太りな女性の顔を見遣って、彼女はこんな柔和な 顔をしていただろうかと疑った。 女の視線は彼を見ずに、襖を隔てた巴の方へ注がれている。 「あんたは真面目なんだねえ。 うちのなんか、初めての子供が生まれる時はそわそわしっぱなしでさ。 挙げ句酒まで飲みだしたもんだけど」 「・・・・・・」 「あんたは、ちゃんと考えてるんだね」 訝しげに、剣心が眉を寄せる。 「―――ちゃんと無事に生まれるんだろうか? 自分はこの子をきちんと育てられるんだろうか? 長い先、妻と子を養っていけるんだろうか? 病気は流行らないか、飢饉は起こらないだろうか? 金が無くて我が子を売っちまうかもしれないし、殴っちまうことも 多いだろう。 そうして、運良く成長した子は・・・自分をどう思うだろうか?」 ぽつり、ぽつり、言葉を紡ぐ女は、しかしまだ剣心を見ることはない。 「・・・今じゃ子供は五人で、うちのやつは慣れちまったのか、 末っ子が生まれた時には仕事で家を空けてたっけ」 そこで久々に呵々と声をあげた。 「どっちかといえば、しんどい事が多いよ。 それでも、何故、待ち望むかねえ?」 ほつれた髪をゆったりと直し、やっと女は剣心へ向き。 「知りたいかい?」 凪いだ瞳で彼の顔を覗き込む。 「・・・教えてくれますか?」 「否応でもあんたならわかるさ・・・ その手で、抱き上げればね」 疲れて、眠って。 ゆるゆると目覚めてみると。 剣心の赤毛が揺れていた。 真っ白な布にくるまれた赤子は、けして大きくはない彼の両手の平に 殆どすっぽりと収まってしまっていた。 ああ、何か話し掛けてる。 そう解るものの、覚醒しきってない意識ではまだぼんやりとしか 把握できなかった。 「女の子だって。 もうちゃんと真っ黒な髪の毛してる・・・きっと君に似るよ。 ほら、顎とか鼻梁とかそっくりだし」 穏やかに、小さく響く声。 「安産だって。 よかったよな、産婆さんはそんな細い腰でどうするんだ、って威したけど」 慣れない空気を、たくさん吸い込むように。 赤子が小さな口を広げたのが解った。 「―――いろいろ、思い出した。 お袋や親父や師匠や兄弟のことを。 普段忘れてる癖に、俺は・・・俺は」 さらさらと剣心の髪が首筋にかかる。 吐息が、彼女の耳朶をくすぐる。 「あな・・・た・・・?」 「巴、俺は」 剣心が、囁いた言葉は。 微睡み続ける聴覚ではっきりとは捉えることは出来なかった。 それでも。 泣き出してしまったくらい、幸せな言葉だった。 ・・・永遠の記憶になるほどに。
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