古ぼけたランプの傘にうっすらと埃が積もっている。 幾つものボトルが棚に狭しと並んでいた。 カウンターの一番奥の暗がりに若い男と女が並んで座っている。 男はまだ少しばかり不慣れな様子でグラスを傾けていた。 女は一見十代かと見まがうような童顔でありながらその姿態は 成熟していて、男にまるで絡みつくようにもたれ掛かっている。 初老のマスターは深紅のチェリーを沈めた淡いカクテルを 女の前に差し出した。 女の、ちらりとマスターを見上げる瞳にランプの灯りが反射して 金色に光る。 「・・・・・・」 暫く手を止めて女の顔を見ているマスターに男が声を掛けた。 「どうかしましたか?」 「いえ、つい昔のことを思い出しましてね」 「昔?」 「ええ、まだ私が見習いのバーテンダーだったころの話ですよ・・・」 狭い店のなかで気怠げな女性ボーカルの曲が流れる。 燻る煙草と、金の瞳と。 マスターはシェイカーを振り、出来立てのダイキリを男に渡して 自分もグラスにウィスキーを注ぐと、ゆっくり語り始めた。 あれはまだ、戦争が始まる前でした。 当時田舎から出てきたばかりの私は早く自立したくてね、 自分の年齢を偽ってまである酒場を手伝っていました。 そう、雑用の仕事にもそろそろ慣れてきたっていう時期でしたよ。 私がグラスを磨いている場所に近い席で、ある一組の男女が 親密そうに話し込んでいました。 立ち聞きするつもりではありませんでしたが その女性の美しさについつい耳を傾けてしまいましてね。 丁度自分はその人達から見れば暗がりに居るし、別に悪気はなかったし。 後から思えば、後悔先に立たずってやつでしたが。 「・・・ねえ、わたし知ってるのよ」 「え・・・?」 「あなた最近奥様亡くなられたでしょう」 「ど、どうしてそれを・・・」 「遺書があったんでしょ。 散々夫の不実をなじった・・・・・・」 少し驚きました。 女はさも楽しそうに喋っている。 男の表情がみるみる青ざめるのとは対照的にその唇は艶やかで、 その瞳は煌めいて・・・。 男の肩を抱いて囁くように、まるで甘い恋を語っているようでした。 「お子さまは? 呆れてたわよね。 世間では愛妻家で通ってらしたし」 くすくすと笑う彼女は本当に綺麗でしたよ。 彼のグラスを持つ手がかたかたと震えていなければ、私はうっとりしていたでしょうね。 「どんな死に顔だった? 首を吊ったんでしょ? 首を吊るって苦しいんですってね? 最初に発見したのはあなたね? 目をしっかり開いてたんですって? 誰を見ていたのかしら? あなたよね? あなたを睨んでた?」 紅い唇から舌を覗かせたかと思うと彼女は彼の耳朶を噛みました。 その時初めて私は寒気を覚えたのです。 まるで彼の亡くなったという奥さんがその場に居るような気がしましてね。 おそらく彼もそうだったのでしょう。 顔が土気色で脂汗が首筋にまで浮かんでいました。 その時です。 「ひっ・・・ひっ・・ひっ」 奇妙な声を発して男がテーブルに俯しました。 右手で胸を押さえている。 まずい、と思いました。 磨いていたグラスを落とすと駆け寄って他の人を呼びました。 そして気づいたのです。 あの女がいつの間にかいないことに。 私は慌てて店の外に出ました。 辺りは暗くてよく見えない。 諦めて踵を返した時です。 女が嗤っている。 ・・・彼女は私のすぐ後に立っていたのです。 思わず私は後ずさり、そして尻餅をつきました。 彼女はずいっと私の目の前にその美しい顔を突きつけて、 そしてまた嗤います。 美しく金色に輝く瞳、細くて真っ白な首、 すっと整った鼻筋―――――― まるで造られたような顔立ちでね、その顔を醜く歪めて さも可笑しそうに嗤い続ける。 恐ろしかったですよ・・・心底からね。 そうして透き通った声で囁くんです、耳元で。 「おまえ、年老いた母親を置いてきたね? 兄弟がみんな都会に出ていって、末っ子のおまえしか残されてなかったのに? 父親はとうにいないんだろう? あんな貧しい村に老女ひとりでさぞ寂しいだろうねぇ? 病気になったらどうするんだい? 誰が看てやるんだい?」 けらけら、けらけら、嗤いが渦巻いて、目の前に田舎の母親が現れてくる。 痩せ細って苦しそうに咳き込みながら床についている。 私は自責と後悔で押し潰されそうでした。 実際、その時にきりきりと胸の痛みを覚えたのです。 ところが突然、それまでの圧迫感が無くなって、見上げてみると女の腕を 黒服の青年が掴み挙げている。 青年の顔はあまり力を込めていないように見えるのに、 女は苦痛で顔を顰めていました。 「いい加減にするんだな」 そう言い放つや否や、青年は彼女の髪をぐいと引っ張りました。 ああ、ここからはとても信じてもらえないかもしれません。 青年が引っ張ると同時に女の躰がずるりと剥けたのです・・・ ・・・いえ、言い方が悪いですね。 その女の躰の皮が、剥がれて青年の手に在ったのです。 美しかった筈の女の顔や躰がまるで萎んでしまった風船のようです。 そうしてそこに残ったのは眼ばかりがぎょろぎょろして、腹の大きく出た 気味の悪い生き物でした。 あとで気が付いたのですが、あれは餓鬼とか呼ばれているものに よく似ていましたよ。 ・・・まあ、飢えていたのは其奴より私の方なのかもしれませんが。 失礼。 変なことを言いました。 さてその餓鬼に似た生き物はぎゃあぎゃあと嗄れた声をあげて みるみる逃げてゆきました。 突然現れた青年は涼やかな顔で一服していましてね、今までとは別の意味で 怖ろしかったですよ。 青年はまだ地面に座っている私を見て、それから――― 「ふん、逃げ足だけは早いな」 「あ、あの・・・」 「君はどうやらああいったモノに好かれそうだ」 「え?」 「いつになるか解らないが置き土産をしておこう」 ―――いえ、そのまま去っていきましたよ。 あれから新聞で調べてみるとあちこちで急な心臓発作で亡くなられた方が 多いのに気づきましたが・・・ やはりあの女、いえあの奇妙な生き物の仕業だったんですかね・・・・・・ すでにマスターのグラスは空になっていた。 長く語ったことに気が引けたのか、またシェイカーを手にする。 思いの外、真剣に聞いていた若い男は気を取り直すように残ったカクテルを飲み干した。 「あれ?」 気が付くと側にいた女性の姿が見えない。 あちこち見回していると、目の前にとん、と新しいグラスが置かれた。 忌々しい。 この匂い。 あいつの煙草と同じだ。 この店の奴は無意識にあの煙草を愛用している。 畜生。畜生。 せっかく苦労して手に入れた躰なのに。 熱い。 熱い。 さっきの酒か? 何を入れていた? 清めの・・・神の酒か? 熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。 熔けて、ゆく―――――― 「・・・頼んでいませんよ」 「話を聞いてくれたお礼です。あの不思議な青年をイメージして作った、 私のオリジナルですよ」 グラスには深い紫色の闇が漂っていた。 ランプの灯りが射すと深紅の揺らめきが見て取れる。 男は一口含んだ。 「・・・苦いですね」 「見た目にこだわって、味にまで気が回りませんで」 マスターは小さく笑った。 「なんていうんです?」 「ダーク イリュージョン、と名付けました」 男はまた少し口に含む。 「―――それで、彼の名は?」 「そう、夢幻・・・夢幻魔実也とかいったかな・・・」
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