「巴ちゃん、この間は助かったよ」 女は陽に焼けた頬をさすりながら、巴に頭を下げた。 「薬・・・効いたんですか?」 「おかげさまで火傷の痕は残らないだろう。 女の子だからね、やっぱり気になってたんだ」 にこにこしながら喋る女に釣られるように、巴も顔を綻ばせた。 「手当が早かったからですわ」 「剣心さんにもよろしくな。 ほんとにあの人の薬は評判がいいよ。 片手間にやってるなんて思えないねえ」 あんまり物言いが大仰でやや巴は困ったが、 お喋り好きの五十路の女性とはこんなものかもしれない、と 黙って相槌を打った。 「ああ、そういえば・・・」 女はぽん、と掌を合わせて。 そしてやや声を潜めた。 「剣心さん、よく京都へ行かれるでしょ?」 「はい・・・」 「わたしの親戚が京都にいるんだけど、剣心さんによく似た風貌の 男の人が、この間もの凄い美女と歩いてたらしいわよ?」 「え・・・?」 目まぐるしい話題の移り変わりに戸惑った巴は、女が言わんとする意味を 取り損ねた。 「まあ、まあ! 巴ちゃんはのんびりさんなのねえ。 亭主が知らない女と居たっていうのに」 「・・・・・・」 漸く言葉の意味を呑み込んだ巴は、それでも表情を変えずに。 恐る恐る訊き返した。 「で、も。 人違いかも知れませんし・・・」 ばん、と女に肩を押されて、よろりと一歩下がる。 「何言ってるの! 赤毛で頬に傷なんて、そう滅多にいやしないわよ?」 せいぜい釘を刺しときなさい、と女はあはは、と笑いながら 己の家へ帰って行く。 まだ全てを整理できない巴は、茫然と往来に立ち尽くした。 からりと戸を引いて、剣心は家の中へ入った。 もう陽も沈んで、辺りは暗いというのに、家の中は灯りひとつ点っていないようだ。 「巴・・・?」 常日頃きちんと家事をこなす彼女が、釜の火もなく。 心配になって早足で廊下を過ぎる。 「巴!」 がたんと襖を開けて、居間を見遣ると。 薄暗い部屋の奥にぽつんと彼女が正座している。 「・・・どうかしたのか?」 辺りを見回しても事件ではなさそうだ。 首を傾げながら、彼女の傍に膝を折った。 巴は俯いたまま、こちらを見ようとしない。 「巴・・・?」 思わず彼女の眼前で手をひらひらさせてみた。 するといきなりぐいっと顔を上げて、巴は剣心のひらひら動いていた 手首を掴む。 「誰、なんですか?」 「は?」 「京の都の美女って誰なんですか?」 「は!?」 「・・・しらばくれないで下さい!」 普段の彼女からは想像も出来ない高圧的な物言いに、剣心も思わず かっとなった。 「帰ってきた途端、訳の解らないことをいうなよ!?」 「解らないのはこっちです」 すくりと立ち上がり、剣心を見下ろす。 「あなたは・・・そんな風にごまかす人じゃないのに・・・!」 「だから、なんのことなんだ?」 苛々して剣心も立ち上がった。 ふたりは暫し睨み合ったが、やがて巴がすっと指を突き出した。 「無理してこちらへ戻らなくてもいいんですよ・・・?」 しなやかに伸びた彼女の白い指先は、そのまま家の外へと向けられている。 茫然として剣心が吸い寄せられるように、その白い爪を見つめていると。 ひらりと巴は身を翻し、ばたん、と部屋を出てしまった。 「・・・何だって言うんだ・・・?」 頼まれた仕事を果たして。 疲れて帰ってきてみれば、この仕打ち。 次第に剣心も腹が立ってきて、一旦置いた刀をまた腰に差して。 すたすたと歩き出した。 かたかたと、戸を開ける音がする。 ああ、ほんとに出ていってしまうのだと、巴は身を固くして その物音を聞いていた。 今、謝れば。 それで済むのに。 今、動かないと。 ―――行ってしまう。 じゃりじゃり、と草履が擦れる。 それきり。 後は静寂が残るのみ。 苛々、していた。 最近特に酷くて、自分でも持て余している。 考えれば、昨夜の喧嘩だって自分は彼の言い分を少しも聞くことがなかった。 (怒るはずだわ・・・) やりきれなくて、肩を落とす。 「どうかなさいましたか?」 目の前で茶を啜っていた客人は、不思議そうに声を掛けた。 「い、いいえ。 なんでもないんです。 それよりも緋村が不在で申し訳ありません」 客はふくよかな頬を揺らして笑う。 「いやいや。 たまたまに来たついでに、恩人である緋村さんに会えれば、と 思っただけです。 了承も得ずに突然お邪魔したのですから仕方ありません」 巴は済まなく思って頭を深々と下げた。 「最近は」 「はい?」 「私達維新志士だった者を直接狙わずに、私達の家族を害する輩も いるようです。 敵が腕の立つ者だと緋村さんにお願いするしかありませんが、女 子供を守るのは緋村さんでも骨でしょうなあ」 「・・・・・・」 なんてことだろう。 巴は愕然とした。 最近の仕事は確かそういった類のものではなかったか。 『美女』と聞いただけで目を吊り上げて非難するなんて。 「あの、緋村は・・・」 「なんでしょう?」 「どんな風に仕事をこなしているのですか?」 ほっほっと、客は愉快そうに声を立てた。 「朴念仁ですな」 「え?」 「余計なお喋りはしない。 滅多に笑わない。 愛想がない。 あれだけの男前なのに、勿体ないことです。 彼が、あなたに対してどう振る舞うのか、私の方が聞きたいくらいですよ」 客は機嫌良く帰途についた。 機械的に身体を動かし、それを見送った巴は、そのまま土間に崩れるように膝をつく。 ぽろぽろと涙が溢れた。 どうして失念していたのだろう。 彼が笑って。 わたしが笑う。 それだけのことを得る為に、わたし達がどれ程の辛酸を嘗めてきたのか。 ―――なんて愚かな。 ぐらぐらと視界が揺れた。 気持ち悪くなって思わず口を手で覆う。 昨夜は殆ど眠っていなかった。 そう思い至った途端、意識が途切れた。 冷たい掌が、額に触れている。 目覚めて、最初に気付いたのがそれだった。 そして。 「巴・・・?」 聞き慣れた声。 愛しい声。 「巴、大丈夫か?」 ゆるゆると目蓋を持ち上げると、剣心が心配そうに自分の顔を覗き込んでいた。 「あなた―――」 小さく応えると、ほっとしたように眉を下げる。 「・・・ごめんなさい、わたしが悪かったんです」 「え?・・・・いいよ、もう」 「でも厭な思いをさせてしまいました」 困ったように剣心は笑った。 そうして優しい手付きで、彼女の額の黒髪を掻き上げる。 ゆっくりと布団から腕を挙げて、巴はその手を取り。 自分の頬へ動かした。 剣心は反対の手も、彼女の頬へ伸ばし。 そのまま軽く口付ける。 「俺も・・・気付いてあげられなかったから」 「何をですか?」 彼女の頬を包んでいた右手がそろりと下へ移動した。 やがて彼女の腹部で止まり。 泣き出しそうな顔で、微笑む。 「倒れてた君を慌てて寝かして、さっき医者に診てもらったんだ。 そしたら―――」 剣心は巴に重さを感じさせないように、身体をずらして彼女を抱き締めた。 先程腹の上に置かれた、彼の掌の意味を。 巴は漸く気付く。 「わ、たし・・・子供が・・・?」 震え出すほどの幸福を。 共に。
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