からら、と襖を開ける。 白い小袖を着た娘が、振り返る。 真っ黒な瞳を向けて。 錆びた鉄の匂いをさせる少年に。 「お帰りなさい」 「―――ただいま」 考えてみれば変な話だ。 剣心にとってここは仕事の活動拠点であるだけに過ぎないし、 巴にとっては仮の住処に過ぎない。 ただ身体を休める為だけの、小さな部屋。 京間は江戸間と違って畳自体が小さいから、本当に、狭い。 その狭い部屋で過ごすふたりに、会話は殆どない。 「いってらっしゃいませ」 「お帰りなさい」 「ただいま」 限られた科白だけが、繰り返される、他には何もない部屋。 それでも次第に、その状態に慣れてしまう。 奇妙だ。 本当に。 「巴ちゃん!」 女将が足を縺れさせながら、叫ぶ。 「火だ、どんどん広がってる! お逃げ!! さあ、他の皆も!!」 普段の賑やかさとは違う、けたたましい声が彼方此方で煩雑に絡み合う。 通りを見遣れば、目的を持っているかのように流れ、走りゆく人、人、人。 その時、巴の目の前を、見知った中年女性の振り乱した頭が過ぎ去ろうとしていた。 「あ、あの・・・っ」 小萩屋では情報通でお喋りで、笑い上戸の『賄(まかな)いさん』で知られていたが、今の彼女からは 焦りと恐怖と、生き延びようと血走ってぎらぎらした眼球が、目立つのみだ。 「あの、すみません」 「え!?ああ、あんたかい」 人々の流れに呑み込まれそうな女の袂を握り締め、巴は有らん限りの力で踏ん張った。 「あの、長州のお侍さんは・・・っ? 皆さんはどうなされたんですか!?」 忙しげに視線を奔らせながら、女は乱暴に袂を引き寄せ、その拍子に巴は半分転びかける。 「さあね、知ったこっちゃないけど、かなりやられたらしいよ。 生き延びてたら御の字だねっ!!」 「・・・!」 愕然と座り込んだ巴の鼻先を、ざざざ、と幾つもの足が熱風と共に駈け抜ける。 と、いきなり襟首を持ち上げられて「あぶねえよっ!早く走れ!!」と怒鳴られた。 何処へ。 何処へ行けというのか。 轟音と共に吹き上がる火柱を見上げながら、巴は茫然と立ち竦む。 帰る場所を、全て捨てて。 『抜刀斎』のすぐ傍で暮らした。 ・・・本懐を遂げる為に。 わたしの。 わたしが動く唯一の目的。 「緋村・・・さん」 痩せ細った、赤毛の少年が、無防備に眠る様が。 刀を抱えて、膝を抱えて、座り込む彼が。 「緋村さん!」 ―――わたしの、唯一の・・・ 人の波に逆らうように、もと来た道を走り出す。 炎が創りだした、高温の強風がちりちりと髪や頬を焼いた。 「あ!」 脚を誰かに引っ掛けられて、仰向けに身体が傾いだ。 この体制では、滅茶苦茶に踏み潰される、と目を閉じた時。 ぐいと腰に回った腕が、巴を強引に引き寄せた。 そのまま肩を抱かれて、華奢な胸板に頬をぶつける。 「・・・え?」 風に煽られる赤毛に気付いて、巴は瞠目した。 汗と、血と、火薬の匂いに混じって。 懐かしささえ感じる微かな体臭が。 つん、と鼻腔の奥に入り込む。 「ひむ・・・」 「馬鹿野郎!!」 降り掛かる火の粉から彼女を庇うようにしながら、剣心は蒼白な顔をして彼女を 怒鳴りつけた。 「どうして危ない方へ向かってるんだ? さっさと逃げないかっ」 「・・・・・・」 あまりの剣幕に巴は絶句した。 そして戸惑うように視線を落とし、彼の身体に刻まれた無数の擦過傷や切り傷や軽い火傷の痕を 見て、再び言葉を呑み込む。 「長州軍は敗れて散り散りだ。 ・・・逃げるぞ」 「は、はい」 がらがらな剣心の声は、きっと戦場で数え切れないくらい檄を飛ばしたからかもしれない。 びっちりとこびり付いた泥は、幾人もの命を救う為に、奮闘したからかも知れない。 戦って、戦って、消耗したその身体で此処まで来てくれたのは。 わたしの、為かも知れない――――――・・・ 「わたし・・・」 「なんだ?」 「小萩屋へ、戻ろうと・・・」 「何を馬鹿な」 「あなたが、戻ってくるのは・・・あの部屋でしたから」 「え・・・」 ぱちぱちと音が聞こえそうなくらい、剣心は大きく瞬きをした。 そして次の瞬間には、茹で上がるかと思うほど顔を赤くする。 汚れた手の平で、両目蓋を覆って、ふう、と熱い息を吐く。 「巴、さん・・・」 「はい?」 「ごめん、ちょっとだけ・・・」 意味が解らなくて、巴が訊き返そうとした瞬間、ふわりと視界が暗くなった。 どくどくと響く鼓動の音で、剣心の胸に抱かれてるのだと、理解した。 顔を顰めてしまうかと思うくらい、強く抱き締められて。 今度は巴の方が耳朶まで赤く染めた。 「どうして俺が、君を見つけられたか、解るか?」 彼女の肩を包む腕(かいな)にぎゅっと力を込めて。 「どうして俺が、小萩屋へ・・・ 火の手が上がる方向へ走ってきたか、解るか?」 巴は答える代わりに、剣心の着物を強く強く握り締めた。 そして小さく、小さく、囁くように、祈るように。 「・・・帰って、きてくれたんですね」 「うん・・・帰りたかったから」 柱が裂ける音も、家屋が崩れる音も、荒れ狂う炎の轟音も。 ・・・まるで別の次元の出来事のように、遠く遠く。 それはほんの、数瞬であったけれど。 「―――行くぞ!」 巴の手をしっかり握って、剣心は走り出した。 やっと持ち出せた肩掛けにくるまれた日記帳に目を落とし、 それを抱き締めて、巴は剣心の背中だけを追う。 ―――お帰りなさい ―――ただいま それは、確かに日常だった。 ふたりの、日常だった。 その大きさや重さが。 現在(いま)のふたりにはまだ解らなかったけれど。 こうして繋がれたお互いの体温が、とてもとても大切で。
・・・繰り返し、繰り返し。 同じ科白を、貴方と。 繰り返し、 繰り返し。 また繰り返し、たい。
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