「あ、巴さん!」
たくさんの洗濯物を抱えた薫は、木戸をくぐってきた ひとりの女性を見つけて声をかけた。
巴と呼ばれたその女性(ひと)は、 柔らかな笑みを浮かべながら薫に近づく。
「こんにちは。
 お忙しそうですね」
「そうなんです、手際が悪くてもうお昼になっちゃった。
 ほんとにいやになっちゃいます」
ほう、と溜め息を吐いて 薫はうんざりとした顔をみせた。
「うちには大食らいがひとりいるから、さっきからうるさく・・・」
「薫〜、腹減ったー!!飯っ!!」
薫の言葉が終わらないうちに、元気な声が響き渡る。
それを耳にした途端、 薫がこきっと首を鳴らした。
「もう・・・!
 まだ何にも支度してないのにぃ」

相変わらず賑やかな家だと巴が 感心していると、奥から聞き慣れた声がした。
「巴、来てたのか」
「はい、先日時尾さんからたくさんお野菜を いただきましたので、こちらにお裾分けを、と思いまして」
そう云ってにこりと笑う巴の手には、大きな鍋がひとつある。
「うわあ〜、もしかして調理済みなんですね!」
薫はありがとうございますと、 ぺこりと頭を下げて巴から鍋を受け取った。
「この寒い時期ですし、二、三日は保つと思いますよ?」
鍋ふたをそうっと開ければ、そこには艶々した 根菜類の煮物があった。
素材の色を損なわず、本当に美味しそうだ。
「早速頂いてもいいですか?」
薫が訊ねれば、巴が否(いな)というわけもなく。
弥彦なんぞは道場からすっ飛んできて、 すぐに膳の支度のために家の中へ入っていってしまった。
「まるで犬の嗅覚ね・・・」
呆れた薫が肩を竦めて呟く。
「弥彦は相当腹を空かせてたんだな」
笑いながら剣心は巴の方を見遣った。
「育ち盛りですし、薫さんも大変ですね」
「それは、そうですけど。
 でも剣心や巴さんがいろいろ親身になってくれますし」
薫は微かに頬を赤らめながら答えた。
この間までひとりぼっちだった自分が、 今こんな賑やかな喧噪の中で過ごせるのは、 剣心たちのおかげだ。
とそこへのそりと背のたかい男が顔を出した。
「お!大当りな雰囲気じゃねえか」
鼻をひくひくさせる男に、薫は感心したように腰に手を当てる。
「左之助・・・さすがね(もうひとり居たわ、犬の嗅覚が)」
「へへ、この匂いは巴さんの手料理かい?」
「さっき頂いたのよ」
「たくさんありますから、良かったら左之助さんもどうぞ」
ごっつあんです!と左之助は右手を軽く挙げ、そそくさと家の中に 上がり込んだ。

「左之助に弥彦・・・あれだけの煮物も多分一瞬でなくなりますね」
がく、と肩を落とす薫に剣心はまあまあ、と声をかける。
「煮物ならまた巴が作ってくれるから、そんなに落ち込まない 方がいいよ、薫殿」
「そ、そうですよね!」
ぐっと握り拳を固めて、薫がくるりと身を翻した。
「わたしも早く行かないと食べそびれちゃうわ!
 剣心と巴さんは?」
巴は頬にかかる髪を抑えながら、 そっと甘えるように剣心の顔を見た。
剣心はその視線に小さく頷くと、薫に「実は」と断りを入れる。
「これから巴と出かける用があるから、これで俺たちは 失礼するよ」
「そう?わかったわ。
 巴さん、本当にありがとうございました。
 剣心、また明日ね!」
ぶんぶんと手を振って、薫はぱたぱたと駆けてゆく。
その後ろ姿を微笑ましく巴は見送った。
「愛らしい方ね、こちらまで気分が明るくなります」
「弥彦も左之も、あれで影ながら薫殿を助けているしな」
和やかに語り合いながら、剣心と巴は神谷道場を後にする。
そんなふたりの後ろ姿を、 そっと襖を細く開けて見つめる視線―――

「かーっ!相変わらずベタベタしてるなあ」
がつがつがつ。
「剣心って日頃禁欲的っつーか、他人に優しくて自分に厳しいって 感じだけど、巴さんと一緒だと自分にも優しくなる感じだよな」
ばくばくばく。
「あんたたち、食べるか喋るかどっちかにしなさいよ」
もぐもぐもぐ。
「ところでよ、ふたりで今からどこへ行く気かねえ」
がつがつがつ。
「あ、俺たちからはもう見えないと思って手を繋いだぞ」
ばくばくばく。
「剣心さんと巴さんってよく手を繋いでるのよ。
 こっちにばれてるの、気づいてるのかしら?
 壁に耳あり障子に目あり、ってね」
もぐもぐもぐ。
「嬢ちゃんのことだから、なんか手を打ってるのか?」
がつがつがつ。
「剣心の様子からして今日が“でえと”はまるわかりだったんだよな!」
ばくばくばく。
「ふふふ、酒屋の御用聞きのさぶちゃんに、ちゃあんと見張ってるように 頼んでるわよ」
もぐもぐもぐ。
「なるほど。
 そいつ剣心と巴さんに面が割れてねえんだな」
がつがつがつ。
「こーゆー時は抜け目ねえな、薫」
ばくばくばく。
「・・・あんたたち、食べるか喋るかどっちかにしなさいってば!」







ちりん、と涼やかな音が響く。
「これが江戸風鈴ですよ」
巴が右手を少し挙げた。
剣心がそれを覗きこむように見つめる。
「へえ、硝子もほんとに身近になったよなあ」
透き通った鬼灯(ほおずき)のようなそれは、 夕焼け色の短冊をゆらゆら揺らす度に、 ちりん、ちりん、と硬質な響きを立てた。
「風鈴という季節にはまだまだ早いですけれど、 見つかってよかったです」
「長崎のびいどろは見たことあったよ」
「厄落としに吹くのでしたね。
 あれもかわいいですよね」
狭い通りをふたり肩を並べて、睦言のような会話を繰り返す。
こんな日常がどれほど大切で、それほど貴重であるか、 剣心と巴は知っていた。

「巴はこういったものが好きだね」
剣心がそう云えば、巴は少しきょとんとした瞳をして。
それからゆっくりと頬を赤く染めた。
「もっと幼い頃は、風鈴とか人形とかそんなものに あまり関心を持たなかったんですけど」
幾度か瞬きした黒い瞳に、赤い髪が映り込む。
いつの間にかふたりは歩みを止めて。
さらさらと流れる小川の水面を眺めていた。
「・・・あなたと出逢ってから、移ろう全てが とても大切なもののように思えて。
 春が来て夏が来て秋が来て、冬が来て。
 雪が溶けて緑が息吹き、花が咲き、そして散り。
 あなたと、一緒にそうした時間(とき)を過ごせるのが ・・・嬉しくて」

ちりん。

巴の指が揺れると、短冊も揺れて、硝子を叩く音がする。
「ですから、こういった季節を感じさせるものについ 目がいってしまうんです」
わたしって結構凝り性かもしれません。
そう云いながら、巴はふわりと笑った。
そっか、と剣心も嬉しそうに応えた。

ああ、覚えてる。
君を喪いそうになった冬。
君と見た初めての桜(はな)。

覚えてる。



震えるほどの、その歓喜を――――――









「風鈴買ってたんだって」
ぱりぱりと煎餅を囓りながら、薫は弥彦と左之助に 事の報告をしていた。
「それだけか?」
左之助も当たり前のように煎餅に手を伸ばし、 ぱしんと薫に叩(はた)かれる。
「うん。
 だけどねえ・・・」
薫はどこか夢見るように空を仰いだ。

「それだけ、なのに・・・
 なんだか胸が熱くなったんだって―――・・・」



「東京日記」バージョンでデートでした(^_^)
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