きゅっと肩を過ぎた髪をひとつに結んで。
少年は、はにかみながら云った。
「・・・だからね、検心さんにはぴったりだと思うんだ。
 薬草に詳しいのはもちろん、傷の手当ても上手だし、 子どもたちにも好かれてるようだし」
ふっくらとした頬を恥ずかしそうに両手で押さえて。
父親は何も云わずただ首を振り。
母親は額に手を当てて冷や汗を流しながらも、 可愛いひとり息子のためにそれでも知恵を絞り始める。



「あんた、生活楽かい?」
大柄な女性が声を掛ける。
籠を背負って足早に歩いていた剣心は、思わずつんのめりながら 足を止めた。
「は?」
「だからね、あんたら若夫婦、ちゃんと食ってるかい?」
女はせかせかと彼に近づくと、同じくらいの目線でぐいと肩を掴んだ。
「あ、あの・・・」
女はかまわず掴んだ剣心の両肩をがくがくと揺さぶり、 さも気の毒そうに口を開く。
「ほっそい肩をしてるねえ、巴ちゃんもがりがりだし。
 せっかく色男に産んでもらってるんだから、もうちょっと逞しく おなりよ」
「は、はあ」
「だからね、あんたたちろくすっぽ食べてないんじゃないのかい?」
「い、いえそんなこ・・・」

がくがくがく。

女は更に強く剣心を揺すると、彼の言葉が全部終わる前に 己の言葉を継いだ。
「いい話があるんだよ、ちょっと聞いてかないかい?」
「え、え?」

ずるずるずる。

首根っこを掴まれ、剣心はすぐ側の女の家に引っ張られた。



今日は予定より帰りが遅い。
夕餉の支度が一段落した巴は、かたかたと駒下駄を鳴らして 外へ出た。
まあるい夕陽が隠れようとしている。
とっぷり墨を流したような夜になる。
「あ」
見慣れた道を、見慣れた姿で剣心が帰ってきた。
しかし心なしか草臥(くたび)れているような気がして、 巴は首を傾げる。
それでもまたかたかたと彼の方へ駆け寄ると、それに気づいた剣心は 白い歯を見せて笑った。
それはまるで零れるような、といった表現が相応しい。
嬉しい気持ちを隠さずに、彼は彼女の前で笑う。
「・・・お帰りなさい」
「ただいま」
「予定より遅かったのですね」
「う・・・ん、実は新しい仕事をやらないかって口説かれてた・・・」
「ま、あ」
何故かうんざりしたような表情(かお)の剣心を見遣りながら、 巴は目を丸くした。
「俺だって正直面食らったよ」
「一体どんなお話だったんですか?」
ぱたり。
剣心の足が止まる。
「あー、簡単に云うなら子ども専用の診療所への引っ越しかな?」



「とりあえず話はしといたよ」
母親はばん!と息子の背中を叩いた。
「まったく情けないよねえ、ひとりで仕事もできないのかい」
少年はめそめそと鼻を啜りだす。
「確かにね、あんたにゃ大変だろうし難しいとは思うよ?
 けどこんな機会は滅多にないんだ、いい加減覚悟おし」
「だ、だって、この村から出たこともないのに、 いきなり江戸で医者見習いって僕・・・」
父親はうじうじしている我が息子を、溜め息を吐きながら 見つめている。
彼はもともとは商人だ。
紆余曲折を経て、すっかり貧乏になり流れ流れてこの村で 農夫となった。
だがつい先日自分の古い知り合いとひょっこり出くわし、 とんとん拍子で息子の将来を引き受けてもらったのだ       医者見習いとして。
これは極上の幸運だった。
自分はこんな風になってしまったが、息子には道が拓けた。
何は何でも彼は旧友に息子を引き取ってもらう気満々だ。
ああ、それなのに。
背が低く、気弱で、やや小太りな息子は。
ひとりでは親元を離れて江戸へは行けない、などと抜かす。
吐(つ)いても吐いても、また溜め息なのも仕方ないだろう。
頼もしい妻が彼とは違い、溜め息どころか 気炎を吐(は)いているのが救いか。

「検心さんは確かに得体は知れないが、見目もいいし、 生活も堅実そうだ。
 子どもの扱いも本人は気づいちゃないだろうが、上手い。
 ああいう人がおまえと一緒なら、そりゃあたしも安心だけどねえ。
 ただ・・・」
「ただ?」
俯きいじけていた息子は、ふと興味が湧いたのか顔を上げて訊いてきた。
母親は眉を情けなく下げた息子の面をちらりと見、 そしてやや傷んだその頭の髪をくしゃりと撫でた。
「検心さんには、巴ちゃんがいるだろう?
 曲がりなりにもここで、ささやかに幸せに暮らしてるんだ。
 どこかしらぎこちないふたりだけど、あたしにはよくわかる。
 あのふたりは互いをとても大事にしてる。
 検心さんが仕事を変わるってことは 巴ちゃんも巻き込むことになるだろう?」
「・・・うん」
母親は今度はむき出しの息子の膝頭をぽんぽんとはたく。
「だからね、あたしたちは検心さんに、無理を云ってるんだよ。
 自分たちの都合ばっか押し付けてるんだよ?
 そのことは覚えときな」
少年の小さな目が、見たこともないくらい瞠られた。
彼は生まれて初めて、他者と自分の、その難しい均衡を 意識したらしい。
彼は本当に格好良くて優しい剣心が好きだったので、 そして剣心にとってこの事は、本当にいい話だと思っていたので、 多少どこかしら浮ついていた。
振り返るに、少年の一方的な要求であったのに。
「ぼ、ぼく・・・」
少年はまた泣き出した。



ぱちん、と弾ける囲炉裏の音に気づくと、巴がゆっくりと炭をかき混ぜた。
「・・・いきなりなお話ですね」
「ほんと、いきなりだったよ」
疲れて肩を落とす剣心を見て、ふふ、と小さく巴が笑う。
彼は、人斬りで。
幕府側から身を隠すためにここにいて。
夫婦であるのは世間を誤魔化しやすいからで。
そんな彼に、息子のことが心配だから同じ職場に、と母親が頼んでくる。

    不思議だ。
彼らは剣心の真実(ほんとう)を知りもしないのに。
けれど巴は思う。
ある意味彼らの選択は正しい。
確かに剣心は信用に足る人間なのだ。
それだけの、“心”を持っている。
・・・初めて出逢った時に、自分がそれをわかっていれば。

巴は剣心に見えないように、軽く首を振ると 熱い茶を湯飲みに注いだ。
「でもそれは、あなたがこの村に馴染んできたって 事なのかも」
「そうかなあ、時々刺すような視線もまだあるし」
うーん、と伸びをしながら、はは、と剣心は軽く声を立てた。
「それも、仕方ないことですけど淋しいですね」
「・・・ほんとはさ」
「はい?」
照れたように剣心は俯くと、こくり、と熱い液体を 喉に流し込んだ。
「ほんとは、少し揺らいだんだ」
「揺らぐ?」
巴は彼の隣へ移動するとゆっくりと膝を折った。 それだけで彼女のかそけき香りが、剣心の嗅覚を刺激する。
甘やかで、それでいて鮮烈な      .
「巴サン」
ぎこちなく口を動かし、剣心は己の小指に触れた巴の 袂を掴んだ。
「この誘いに乗ったら。
 俺は・・・俺たちは、幸せになれるんじゃないかって。
 普通の夫婦(めおと)として暮らせるんじゃないかって、考えた」
びく、と肩を震わせ巴は剣心の顔を覗きこんだ。
その色の薄い瞳に、縋るような切なさが滲んでいる。
そして、同時に映り込む自分の、やや赤らんだ頬。
(なんて顔)
(驚いて)
(戸惑って)
(・・・嬉しい)
巴はそのまま剣心の胸へ身体を傾ける。
(嬉しかった、のだ)
(この人が、そんな風に云ってくれるなんて)
(片時も自分に課された“もの”を忘れない人が)
ゆっくりと右手を広げ、自分の心の臓の上に置く。
(この奥で。
 何かか、どきどき、した      
「巴さん・・・?」
剣心のしなやかな左腕が、巴の背中に回る。
(そう、これだけで。
 この人の腕ひとつで、こんなに温かい)

「あなたは」
「うん?」
「一緒に暮らそうって云ってくれました」
「・・・」
「形だけでなく、一緒にって」
「うん」
白くて細くて、それでも田舎暮らしで荒れた指先が。
剣心の頬を撫でる。
「わたしは、頷いた」
そのまま彼女の指は、ゆっくりと彼の目尻に触れる。
「わたしは、あなたの手を取った」
鼻梁を辿り、唇に下りて。
「わたしは、あなたとならどこでも      
ぐっと身体を寄せ、巴は紅い唇で剣心のそれを塞ぐ。
彼の下唇を噛み、薄く開いた歯の隙間に舌を潜り込ませ。
するとくい、と肩を強く掴まれた。
差し入れた舌が、熱いそれに絡め取られ。
小さな水音を立てながら、互いの唾液が互いの口元を汚してゆく。
合間の息継ぎの息さえ、熱くて。
やがていつの間にか剣心が巴に覆い被さり。
それでも湿ったその音は、途切れることはない。

・・・剣心も巴も解りすぎるほど、解っているのだ。
新しい時代の夜明けが来るまで、剣心は“人斬り”だ。
何があろうと、それは覆せないだろう。
十二分に、知っている。
巴の口付けにはその想いが込められていた。
だから剣心も、貪るようにそれを受け入れる。



現在(いま)はこんなふたりだけれど。
いつか・・・そう、いつの日か。
例え其処に辿り着くまでの道が
晴れやかであっても 雨であっても。
光であっても 闇であっても。

剣心の真実の道を見つけるまで一緒に、と願いながら       .







おどおどと少年が、それでもはっきりと 剣心に謝ってきたのは翌日だった。
泣きそうな、それでもちゃんと剣心の目を反らさず見て。

・・・剣心はただ笑って、その少年の頭を撫でた。


いろいろ口説かれた剣心・・・のつもり(;ω;*)コ
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