さわさわと風が吹き抜けた。 空気にはまだ生ぬるい陽の名残が残っているが、川面を滑る風は 心地よく、汗ばんだ首筋を乾かした。 ちかちかと小さな火花が弾けて、消える。 「珍しいな、手花火か」 「江戸では和紙を撚ったのが多いんですけど。 この辺りは藁を使うんですね」 剣心は手花火に詳しくもなく、曖昧に頷いて巴の傍にしゃがみ込んだ。 珍しく髪を結い上げて、彼女の長い首筋がとても細く見える。 ぼんやりとそれを眺めながら、剣心は無言で川縁の風に赤毛を揺らしていた。 彼女の指に挟まれた手花火はゆらゆらと蝋燭の炎の先で 不安定な火種を再び点す。 「・・・小萩屋の女将さんに戴いたんです」 今は燃えてしまった宿の名は、剣心と巴にとっては 忘れられない場所のひとつだ。 花火は炎の花弁を上げながら、やがて大きく弾け始める。 「もう、明日は此処から離れないと」 「ええ」 漸く巴は顔を動かして剣心の顔を見た。 「・・・元服なされたのですね」 今度は剣心が彼女から視線を外して、足元で揺れる露草の葉を見遣る。 「形だけだ」 「形だけでも元服しとかないと式は挙げられないでしょう?」 ふたりの背後から威勢のいい声が飛んできた。 元・小萩屋の女将は皺の寄った口元をにやにやさせながら、これまた皺だらけの 細い腕を腰に当てている。 「飯塚さんから多少の金子は戴いてるし、予定通り祝言を挙げるかね。 まあ、立会人も客もいない式だけど」 黙りこくってふたりは女将をただ見つめることしかできない。 手花火は勢いよく火球から菊のような赤い花びらを散らし、ふたりの頬をますます 赤く染め上げてゆく。 「散ってゆく菊の花みたいだろう? その手花火が好きな奴は多くてね。どうしてだと思う?」 「・・・綺麗だからだろう」 口籠もった巴に変わって剣心が素っ気なく答える。 女将はふふん、と鼻を鳴らして目を閉じた。 「“命”に見立ててるからだよ」 幾つかの真っ白な皿の上に、女将が丹誠込めてつくった料理が並んでいた。 狭い部屋の中で、剣心と巴は緊張した面持ちで上座に座り、女将が 徳利を持ち上げる。 「旅館が焼けて何にも残らなくて。済まないねえ」 いつもの白い小袖といつもの無地の帯を締めて、それでも巴は優しい顔で首を横に振った。 剣心はその彼女の横で穏やかな視線を送っている。 (おやおや、こんな表情(かお)が出来たんだねえ) 女将は感心しながらふたりに頻りに酌を勧めていた。 だがそうしながらも、彼女の白く濁り始めた瞳がふと止まってしまう物がある。 ―――男の隣りに置かれている刀と、女の懐にある小刀。 今宵初めて夫婦(めおと)として認められたふたり。 だが彼らの持つ刃(やいば)はお互いの深い干渉を拒んでいるようにも思えた。 (・・・こんな時代だし、緋村さんの勤めが勤めだし。 おそらく巴ちゃんもなんらかの重荷を背負ってるんだろうが) ついと視線を落とせば巴の酔ってほんのり赤くなった右手を剣心の左手が しっかりと包んでいる。 嘆息と微笑みとを器用に同時に表しながら、女将は声を張り上げてふたりに 小鉢の料理が如何に手の込んだ物か、説明を始めた。 (それでも、男と女が互いを必要とするんなら・・・) 男の勤めも女の重荷も、押し流されてしまえばいい、と老婆は思う。 粗末ながら、小綺麗な寝所で巴は正座したまま俯いていた。 さらり、と衣擦れの音がして剣心が部屋に入ってきたことが解る。 「明日は早い。もう寝た方がいい」 屈み込んでそう言って、彼女の黒髪を一房するりと指から零れ落とさせると 剣心はそのまま部屋の隅へ行こうとした。 「あ・・・のっ」 きゅっと唇を噛むと同時に巴は彼の袖を握り締め、腰を浮かして 勢い余って倒れ込みそうになる。 「とも・・・」 反射的に彼女を抱き留めて、微かな白梅香の残り香を嗅ぐと 剣心はそのまま彼女を押し倒した。 触れそうな程間近な彼女の瞳から視線が外せないまま、 ゆっくりと唇を重ねる。 優しく触れたきたそれはやがて深くなり、 互いの舌が濡れた音を立てて、絡み合ってゆく。 息苦しくなった巴の指が剣心の肩口に食い込んで、 やっと気が付いたように彼は身体を離した。 「ご、ごめ・・・」 「いいんですか?」 彼女の了解も得てなかった事に恥ずかしくなって 慌てて剣心が謝ろうとした時、 彼女はやや濡れた瞳で彼を見上げてそう訊ねた。 「わたしで、いいんですか?」 「・・・・・・」 何が、とその時剣心には訊けなかった。 巴もそれ以上語ろうとはしなかった。 問うことも、問い返すことも、幼いふたりは出来ないまま、 身体を重ねた。 彼女が自分を拒まないことが、彼は嬉しかったし、 彼が素性の知れない自分を大切にしてくれることを、彼女は喜んだ。 そうして確かにふたりは、 ふたりでいることが幸せだった――― 手元にはあの小さな花火があった。 動と静を繰り返し、ぱあっと花弁を散らして、 やがて小さく地面に落ちて行く光を 彼女はじっと見つめるだけ。 ふと気付くと、 火球の落ちた其処からぐんぐんと 芽吹く若葉があった。 力強く頭をもたげ、そしていつかは大きな樹木となるだろう。 それは強い陽射しや、雨や風から人々を守り、 やがては自身の枝や幹を材木として提供するのかもしれない。 老木となり、朽ちてゆくだろうけれど 次の世代がその根元からまた芽吹く。 ああ、 これはわたしの手から生み落とされるのだ・・・・・・・・・ ゆるゆると目蓋を開けて、隣を見る。 彼が、幾度も幾度も彼女の髪を掬っては落とし、 落としては掬っていた。 普段は引き詰めている彼の長い赤毛は 彼が動く度にさらさらと流れる。 剣心は巴が起きたことに気付いたがそのまま 彼女の髪を弄り続けた。 巴も黙ったまま、赤い鬱血が残っている白い腕を伸ばして 剣心の髪を掴む。 そうしてふたりはくすくすと笑い合った。 彼女の、肩に鎖骨に胸に、赤い印が散らされていた。 彼女からは見えないが彼の背中にも、彼女の爪痕がうすく残っている。 お互いが残した痕が愛しくて。 その痕が薄くなってゆくのが名残惜しくて。 剣心は再び彼女の鎖骨辺りをきつく吸い上げた。 巴はそんな彼の肩胛骨に再び爪を立てた。 「痛いよ」 「痛いです」 同時に吐き出された言葉にふたりは顔を見合わせて、 同時に吹き出した。
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