「ゆきだよー」 おかっぱ頭の幼女が振り向いて、はしゃぐ。 母親はゆっくり笑いながらその子の頭を抱え込んだ。 「そんなに眺めてたら、あなたの顔が雪で、真っ白になっちゃうわ」 さらさらと柔らかな髪を梳いて、小さなその手を引き寄せようとした、その時。 「とーたん!!」 微かな足音を聞きつけて、幼女は半分脱げかかった草履をもどかしげに 引きずりながら駆けだした。 空は灰色に染まって重くなり、其処から浮き出たような粉雪が舞い降りてくる。 細い道の向こうから、銀鼠(ぎんねず)色の人影が近づいてきた。 時折吹く強い風に長い赤毛がなびく。 母親がそれに気付いて、薄く頬を上気させた。 人影はやがて痩躯の青年の姿となり、 ころころと雪が彼の肩に弾かれて踊っているのが解るまでの距離になる。 短い足を懸命に動かしていた幼女はそのまま彼の懐に飛び込むように見えたが、 父親の顔がはっきり解る位置まで近づくと、急に立ち止まり、また母親の方へ 舞い戻ってしまった。 そうして母の袖に顔を半分埋めながら、ちらちらと視線を送る。 「・・・忘れられたかな」 彼は優しく微笑んで、肩を落とす素振りを見せた。 「恥ずかしいんですよ、久しぶりなんですから」 彼女は子供を抱き上げて、彼の傍へ歩み寄り、彼の肩の雪を払う。 「さあ、早く家の中へ・・・」 彼が漸く土間へ足を踏み入れると、母親は温めて置いた湯を入れた桶を下へ置き、手拭いを差し出した。 幼女はずうっと彼女の左足にまとわりついたままだ。 母親は子供の頭を撫でながら、彼の顔をまっすぐ見つめ、そして深く腰を折った。 「・・・お帰りなさい・・・あなた」 「――――――ああ・・・」 破顔した彼はひどく幼い顔立ちに見えた。 やや腰を屈めて、片手を子供に差し出すと、 漸く子供は安心したようにその腕に飛び込んだ。 「おかえりなさい、とーたん」 湯気の立つ椀を眺めながら、剣心はぽつりと呟いた。 「こんな温かい夕餉は久しぶりだな」 子供は先程から彼の背中に抱きつきながら、自分の積もる話を 聞いて貰おうとあのね、あのねを繰り返している。 「本当に、ご苦労様でした。 もう、全て終わったのですか?」 「・・・全てじゃあ、ない。 まだ戦いはあちこちで続いてる。 ただ・・・俺の役目は終わったんだよ」 「そうですか」 「それに」 剣心はすうっと息を吸い込んで、一気に吐きだした。 「・・・これから終わらない闘いも、始まる」 「・・・・・・・」 自分の抱えてきたもの、彼の抱えてきたもの、そして ふたりが未来に抱えていくものを思って巴は俯いた。 そして彼の脇に置いてある一振りの真新しい刀に気付く。 剣心もその気配に敏感に悟って、持っていた椀を置き、その刀を巴に 預けた。 「見てみてくれ」 短いが、気迫の籠もった言葉に突き動かされるように 巴はその刀身を僅かに引く。 「これは・・・」 普通の刀とは明らかに違う。 刀の持ち主に向けて、鋭い刃を向ける、刀。 「逆刃刀だよ」 「逆刃・・・の、刀――――」 昔の自分の言葉が甦った。 刀を見据えたまま、 動かない巴を見て、剣心はそっと彼女から刀を取り上げた。 背中でオンブしてくれとせがむ幼女に決して触れぬよう注意して、また己の側に置く。 「赤空殿が手向けにくれたものだ」 「・・・・・・」 「この答を出すのには、随分と時が要るだろうな」 「・・・ええ、そうですね。でも」 短い沈黙の後、巴は顔を上げて微笑んだ。 「でも、あなたは独りではありません。 答はきっと見つかるし・・・答に至るまでの過程も、踏み外すことはないと思います」 剣心はそれを聞いた瞬間顔を赤くして、そして面映ゆそうに微笑む。 普段から大人びた所作の彼が見せる、年相応のそれは 巴にとってとても愛しく、大事な表情(もの)のひとつだ。 彼に釣られるように微笑む彼女に、剣心ははっとする。 出会った頃よりも、彼女は数段綺麗に微笑むようになった。 それが嬉しくて、とても幸福で。 けれどそんな感情に慣れていない彼は妙に恥ずかしくなって、 照れ隠しに子供を肩に乗せてみたりする。 幼女は肩車はしてくれても、自分の話を一向に聞いてくれない父親に怒って、 彼の頭をぺしぺしと叩(はた)いた。 「こら、こら」 思わず剣心が頬を膨らませ、子供に怒ったような顔を見せると、 子供はさも可笑しそうにころころといつまでも喉を鳴らす。 肩から下りて、剣心の胸に顔を擦り付けながら、また笑う。 そんな子供の笑顔を見て、巴も声を立てて笑った。 狭い家の中が、それだけで幸せに満ち溢れ、輝く場所に思える。 数日前まで、血塗られていたこの手に。 抱かれて笑う、我が子。 この子に、笑顔を教えたのは巴――――――― ここまで来るのに、血を吐くような思いもあった。 一歩間違えれば、彼女を永遠に失ってしまう時もあった。 彼女と子供を残して旅立つ時、背中を押してくれたのは他ならぬ彼女だった。 やっと辿り着いたこの瞬間。 そしてこの瞬間から、始まる闘い。 おそらく答のひとつは既に解っている。 その答に己自身が応え続けて行かねばならないこと、 それが本当の―――――・・・ 一瞬厳しい顔をした、彼の背に巴がもたれ掛かった。 膝の中で仔猫の様に甘える子供を支える彼の手に、彼女の白い手が重なる。 振り返れば沈んでいきそうな罪を、ふたりは背負い。 そして沈むことなく羽ばたける翼を ・・・持っている。
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