繋いでいた身体を離すと、微かな水音と共に汗ばんだ巴の背中が 小さく反った。
そのまま彼女の肩を抱き込んで、剣心は薄い敷き布団へ倒れ込む。
巴は彼の腕に頭を預けながら、ゆるりと目蓋を閉じた。
額に張り付いた髪が煩わしい、とは思うけれど気怠くて。
そのまま睡魔が襲ってくる。
と、もぞもぞと剣心の左手が動いて、肌掛けを持ち上げ。
ぱさりと抱き合うふたりの上に落とした。
巴の頬に当たる剣心の胸元はまだ湿っていて、 唇に淡い塩の味が移る。
とくとくと彼の鼓動を聞きながら、汗が塩辛いって本当だ、と 改めて思う自分がなんだか可笑しくて。
巴はくすりと肩を揺らした。

「なに?」
気づいた剣心が怪訝そうに訊ねる。
「いいえ、なんでも、ないです」
「そう?でも気になるけど」
「・・・自分が慣れてしまったことが可笑しくて」
「え?」

先ほどまでの眠気が何処かへ消えて。
巴はおもむろに身体を少し起こした。
「あなたと初めてこうした時はもうどきどきしてばかりで。
 いろんなことを思い出しては顔が熱くなって困ったものですけど。
 今は狭い布団にふたりでくるまりながら、わたしはあなたの心臓の音を 聞いたり、明日の食事のことを考えたりしてるんですよ」
自分でもそれが不思議でつい笑ってしまいました、と 巴は何故か自嘲するかのような表情(かお)で締めくくった。

『幸せ』なのは、とてもおそろしいことだ。
その事実を巴は身をもって知っているくせに、また『幸せ』に 溺れている。
誰かを愛してしまうことは、とても甘美で抗いがたくて。
それが『幸せ』を自分の中に満たしてゆく。
こわい。
こわい。
温かくて、気持ちよくて、到底逆らえないもの      ・・・

無意識に巴の細い指が、剣心の鎖骨を辿っていた。
身体中のあちこちに散らばる、古い傷跡、新しい傷跡。
(あなたも、わたしと居て幸せ、ですか?)
声にならなかった問いかけに応えるかのように。
彼女を懐(いだ)く剣心の腕に、ぎゅっと力が入る。
まだ乾かない彼の汗の匂いに、巴は欲情すら覚えた。

ああ、彼も“此処”が『幸せ』だと知っている。
そしていつかまた“此処”から出て行かねばならないことも知っている。
彼は、人斬りとして。
そしておそらく、わたしは彼へ犯した罪の代償として。

「・・・離さないで、くださいね?」
「巴さん?」
「ずっと、なんて我が儘は云いませんから」
剣心は巴を抱き込んだまま、彼女の瞳を覗き込んだ。
かさついて、それでも繊細な彼の指先が。
彼女の額にゆるりと触れ。
そして小さく口づけを落とし。
「その我が儘、きくから」
「・・・え?」
「離さない、から」
再び剣心の腕の力が強まった。
互いの体液でまだ濡れている下肢が、自然と絡み合う。
どちらからともなく、顔を寄せて。
唇を重ね合わせて。
舌を伸ばした。
暗闇の中で、唾液を混ぜ合う音だけが木霊する。
とそこへ、りん、と鈴のような音が割り込んできた。

「・・・虫の音(ね)、だ・・・」
「今年一番に鳴きましたね」

りん、りん、りり、とか細くて頼りない音が。
どこからか部屋の中に入り込んで、ふたりの鼓膜を振るわせる。
「一匹だけ、だね」
「ええ」
巴がふと視線をあげると、剣心がどこかぼんやりした表情で窓格子の 向こうを見つめていた。
「あな・・・」
「巴さん」
巴が剣心を呼びかけようとした言葉に重なるように、剣心が掠れた声で 彼女を呼ぶ。
「巴さん、俺の我が儘も聞いてくれる?」
相変わらず遠い瞳のまま。
剣心は巴の髪を指で梳(けず)りながら、問うてきた。
「・・・なんですか?」
多少面食らいながらも、小首を傾げて巴は返す。
わたしにできることなら何でもと、 言外にその思いを滲ませながら。
「子守歌を、唄って」
   子守歌、ですか?」
「うん。
 ・・・ダメかな?」

巴は顔を真っ赤にして、どうしようかと視線を あちこちに揺らした。
子守歌は昔、背に負ぶった縁によく唄っていたけれど。
情事の後の寝物語に唄うというのは、恥ずかしすぎるのではないだろうか?
「あ、あの・・・」
「だめ?」
「え・・・その・・・」
もじもじと俯くと、ふっ、と剣心が笑う。
「ごめん、ごめん。
 なんだか急に聞きたくなっただけだから。
 忘れて、巴さん」
いつもの笑顔で。
剣心が我が儘を撤回する。
すると急に胸がざわめいて。
巴は彼の赤毛をきゅっと引っ張った。
「てて・・・、何?」
「すこ、しだけですよ?」
「・・・は?」
「子守歌、です」
朱に染まった顔をして、それでもしっかりと剣心の瞳を見て。
彼の我が儘を承諾した巴に。
剣心はまるで幼子のようにふにゃり、と表情を崩して笑った。
   その笑顔を見ただけで良しとしよう。
巴はまた俯いて。
小さな声で唄い出す。



ねんねんころりよ   おころりよ・・・・・・







愛しい歌声を聞きながら。
剣心はゆっくりと瞳を閉じた。
実の親に子守歌を唄ってもらった記憶は、ない。
ただひとつ。
たった一晩だけ。
出会ったばかりの人に、唄ってもらっただけだ。

(霞さん・・・・・・)

嬉しかった。
自分も人買いに売られて不安だったろうに、幼い剣心を抱いて、子守歌を 唄ってくれた。
その時、たった一匹だけの鈴虫が。
頼りない旋律で鳴いていたのを、鮮明に覚えている。

守りたい、と思った。
この優しい人を。
何もなくなった自分にはもうそれだけしかないように思えた。

なのに。



里のみやげに   なにもろた
でんでん太鼓に   ヒョウの笛



巴の歌が細く、それでもくっきりと剣心の胸の奥に 染み渡る。



(・・・離さないで、くださいね?)
(ずっと、なんて我が儘は云いませんから)

離れないで、と。
ずっと離れないで、と願っているのは自分の方だ。
形の解らない奇妙な不安に、いつか足元を掬われそうで。
・・・怖がっているのは、自分の方だ。
だから。
ねえ。

今は、
うたをきかせて          .


巴ちゃんが唄うとしたら、江戸子守歌かな、と。
でも五木の子守歌とか唄わせてみたかったです(^-^;
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